斉明天皇伝説が色濃く残る、古式な例祭、7月夏祭りでは絵金公開
[住所]高知県高知市朝倉丙2100-イ
[電話]088-844-1360

朝倉神社(あさくらじんじゃ)は、高知県高知市朝倉にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 土佐郡「朝倉神社」に比定される式内社(小社)。土佐国二宮とされる場合があり、当社自身も「土佐二の宮」を掲げる。

御祭神は、天津羽羽神(あまつははがみ、天津羽々神)と天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子とされ、天豊財重日足姫天皇は第37代斉明天皇の和風諡号。

創建は不詳。古くから『日本書紀』の斉明天皇西征伝説に比定する説が知られる。

すなわち同書斉明天皇7年(661年)条によると、天皇は百済救援のため難波宮を出て西征し、伊予熟田津、娜大津を経て朝倉橘広庭宮に移ったといい、朝倉宮の造営には「朝倉社」の木を使用したという。

これに対して当地の伝説では、当社後背の赤鬼山(あかぎやま、県指定史跡)の木を切って山麓に営んだのが、その朝倉宮であるとしている。

そして天皇の死後、赤鬼山の神である天津羽羽神を祀る社殿に天皇の霊を合祀したと伝える。

今日の通説では、『日本書紀』の記事に対して「朝倉橘広庭宮」は福岡県朝倉市山田または朝倉市須川、「朝倉社」は福岡県朝倉市杷木志波の麻氐良布神社に比定される。

ただし、愛媛県四国中央市の村山神社など、四国にも関連伝承を伝えるところはある。

当地でも斉明天皇伝説が色濃く残り、干娜大津・苅谷ヶ崎・橘谷(宮谷)・小屋谷・釣井元・除岩・張規(針木)・小磐嶽などの関連地名が残るほか、当社南方の鵜来巣山に斉明天皇の陵があるといわれる。

現在の当社の俗称「木の丸様」もまた、赤鬼山から伐り出した丸木による俄造りの朝倉行宮を「木の丸殿」と称したとする伝説に由来する。

また「赤鬼山」の山名は、斉明天皇崩御時に天皇の葬儀をうかがった鬼(『日本書紀』)に由来するとも、古墳に赤鬼が住んだことに由来するともいわれる。

どちらにしろ、当社後背の赤鬼山は奈良県桜井市の三輪山などと同様に神の籠もる山(神奈備)として古代祭祀の信仰対象であったとされ、当地は古くから開けていたと考えられている。

赤鬼山中腹からは弥生時代中期の土器が発見されているほか、南麓には古墳時代後期の朝倉古墳があり、当社の存在はこの赤鬼山を中心に成長した豪族に対比される。

中世には、土佐国一宮の土佐神社(高知市一宮)御祭神の后宮とする説が生じて、土佐神社に次ぐ二宮に位置づけられたといわれる。古くは土佐神社と交替で国内祈願を行なったとも伝わる。

ただし一般には二宮は日高村の小村神社とされる。

天正16年(1588年)の『朝倉荘地検帳』には「大宮」として記載があり、宮床39代、宮山に神領1反45代、ほかに多くの神田があると見える。

江戸時代に土佐藩を治めた山内氏は当社を崇敬し、明暦3年(1657年)に第2代藩主山内忠義によって本殿(国の重要文化財)が、寛政8年(1796年)に第10代山内豊策によって幣殿・拝殿が再建されて現在に残っている。

『南路志』によると、近世の社地は1反11代3歩、社領は2反であった。また別当寺は真言宗の朝倉山光泉寺良寿院であったが、現在は廃寺。

明治維新後、明治5年(1872年)に県社に列した。摂末社として、荒倉神社、忠魂社、倉稲神社、八坂神社がある。

例祭は11月10日。秋例大祭で、「なんもんで(南無阿弥陀仏)」と唱えながら扇・鉦・太古を持った老若男女が踊る「なんもんで踊り」のほか、棒振り・神相撲など、古くからの芸能が奉納される。市指定無形民俗文化財。

7月24日は夏祭りで、江戸時代の絵金(弘瀬金蔵)の襖絵が公開される。

【ご利益】
開拓・発展の神(公式HP
朝倉神社(高知市) - 斉明天皇伝説が色濃く残る、古式な例祭、7月夏祭りでは絵金公開
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朝倉神社(高知市)の御朱印