5世紀ごろに大和神社を勧請した淡路国二宮、一遍上人や蜂須賀家ゆかり
大和大国魂神社(兵庫県南あわじ市榎列上幡多857)
[住所]兵庫県南あわじ市榎列上幡多857
[電話]0799-36-3984 - 八幡神社

大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は、兵庫県南あわじ市榎列上幡多にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 淡路国 三原郡「大和大國魂神社」に比定される式内社(名神大社)で、淡路国二宮。近代社格では県社。二ノ宮神社とも。

主祭神は大和大国魂神。八千戈命、、御年命素盞嗚尊大己貴命、土御祖神(大年神の御子神)が配祀されている。

中世から近世にかけては、御祭神は伊弉諾尊伊弉冉尊と思われていた。国産み神話の影響によるものと見られている。

当社の創建年代は不詳。当社は大和朝廷の勢力が淡路に及んだ時、その支配の安泰を願って5世紀ごろ、大和国山辺郡の大和坐大国魂神社(現 大和神社)を勧請した、とも言われている。

1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したとする説。

2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説。

3.淡路が大和政権樹立の最初の寄留地であったからとする説。

など諸説ある。『日本文徳天皇実録』 仁寿元年(851年)12月5日の条によれば、詔によって当社が官社に列せられている。

さらに『日本三代実録』 貞観元年(859年)1月27日の条には、神階が従二位勳三等から従一位に陞叙されたことが記載されている。

延長5年(927年)の『延喜式』神名帳に記載がある他、「主税式」においても祭祀料800束(米16石に相当)を国から受けていることが記されている。

当時国の正税から祭祀料を受けていたのは、出羽国月山大物忌社、陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社しかなく、特別視されていたことが分かる。

社前の由緒石碑では、神を祭り地元の民衆が桜花を賞したことで「二ノ宮の桜祭」として一般に知られることになり、後に淡路国二宮と仰がれて公武の崇敬浅からぬようになった、と述べている。

桜会は3月10日に行われていたが、現在は廃絶。

正応2年(1289年)7月、一遍上人が当社に詣でて歌を詠み、これを木札に書いて社殿の正面に打ちつけたという。この木札は、『一遍聖絵』の編者聖戒が一遍の死後に訪れた時にはそのまま残っていたという。

また、室町時代には賀集八幡(南あわじ市賀集八幡)の伶人によって当社へ舞楽の奉納が行われていた。

江戸時代、徳島藩主蜂須賀家が当社を深く信仰し、元禄15年(1702年)に社領2反を寄進。その後も代々の祈願所と定めて崇敬し、社殿の改築が度々行われた。

本殿再興のほか、文政12年(1829年)と天保14年(1843年)の諸殿建立など、明治維新による廃藩置県まで行われた。

明治元年(1868年)の神仏分離令により、当社境内にあった淡路西国霊場第12番大和寺観音堂および淡路四十九薬師第2番薬師堂は移された。

明治6年(1873年)、県社に列格し、明治10年(1877年)、三原郡一円の信徒による郡費を充てて本殿および諸建物がすべて新築された。

平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災により、建立から約400年を経ていた鳥居が修復不能の損傷を受けた。

平成10年(1998年)12月に掃守・上幡多・下幡多・松田・山所の5地区の氏子が協力して現在の鳥居を新たに建立している。

宝永年間(1704年-1710年)に境内から出土した大和社印が県指定重要文化財。大きさ5.5センチ四方の古銅印で、おそらく平安初期のものとされる。

例祭は4月1日。

【ご利益】
交通安全、厄除祈願、合格祈願、旅行安全、病気平癒、家内安全、商売繁盛など
大和大国魂神社 - 5世紀ごろに大和神社を勧請した淡路国二宮、一遍上人や蜂須賀家ゆかり
【関連記事】
名神大社とは? - 名神祭の対象となる神々、式内社の中でも特異、その細かな特徴は?
兵庫県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
大和大国魂神社の御朱印