水戸藩の厚い崇敬、当地で休息した日本武尊を祀る常陸国三宮
[住所]茨城県水戸市宮内町3193-2
[電話]029-247-6464

吉田神社(水戸市)(よしだじんじゃ)は、茨城県水戸市宮内町にある神社。御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。参拝すれば、「常陸第三宮」などとある御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 那賀郡「吉田神社」に比定される式内社(名神大社)で、常陸国三宮。近代社格では県社

『常陽式内鎮座本紀』『常陸二十八社考』によると、日本武尊が東征の際にこの地(朝日山/三角山)で兵を休ませたといい、これにちなんで社殿が造営されたのが創建。

休憩場所とされる地は、「朝日三角山遺蹟」として、現在も境内一角に伝えられている。

当社所蔵の古文書によれば、正安4年(1301年)に鎮座以来800余年を経過した旨の記載が見える。昭和60年(1985年)10月19・20日開催の秋季例大祭は創建1500年祭として実施された。

国史での初見は、承和13年(846年)で、従五位下勲八等の神階にある「吉田神」が名神に列したと記されている。

その後、神階は天安元年(857年)に従四位下勲八等、貞観5年(863年)に従四位上勲八等、元慶2年(878年)に正四位下勲八等に昇った。

常陸国において、鹿島神宮(一宮)、静神社(二宮)に次ぎ三宮に位置付けられ、鹿島神宮に次いで式年造営も行われたという。

中世には当社の神郡として那賀郡から「吉田郡」が分立したが、当社の社領は158町で吉田郡の半分に及んだ。この社領は以後荘園としての性格を強め、「吉田庄」とも称された。

また薬王院を神宮寺とし、神社には6間と3間の回廊や鳥居・玉垣があり、多くの付属建物や末社が存在し、神階も正一位に達した。その後は薬王院が天台宗の中心地として隆盛するとともに争論が増え、神威は衰退した。

江戸時代には水戸藩から篤い崇敬を受け、特に徳川光圀は寛文6年(1666年)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し、徳川斉昭は天保15年(1844年)に『大日本史』と社領100石を寄進した。

明治維新後、明治6年(1873年)4月に県社に列した。昭和20年(1945年)には、空襲で社殿全てが焼失。昭和23年(1948年)に再建され、その後の改築・修理を経て現在に至っている。

社務は、古くは吉美候氏(きみこうじ)が担ったとされる。吉美候氏は、長承年間(1132年-1135年)に中央公家の小槻氏に社務職(領家職)を寄進。

この寄進は、在庁官人の介入や土豪の押妨から社領を守るためであった。また、神主職は戦後まで田所氏が担った。

水戸七社の一つである笠原子安神社(笠原大明神。笠原町字壱番。弟橘姫木花開耶姫)、酒門神社(酒門大明神。酒門町。木花開耶姫)の二つの別宮がある。

本殿向かって右手に、松尾神社(松尾大社から勧請)、多賀神社(多賀大社から勧請)、住吉神社(住吉大社からの勧請)、八幡宮、大国主事代主神社、疱瘡守護神社があり、本殿向かって右奥には、国見神社、早歳神社(両道入姫命)がある。

本殿向かって左奥に、飯神社(仲哀天皇。「新宮社」「気比明神」とも。氣比神宮からの勧請か)、水戸神社がある。その他末社多数。

例祭は10月中旬。古くは旧暦9月15日に行われた。現在でも例大祭として、那珂川までの盛大な神輿渡御が行われる。7月下旬には御田植祭、子供あんどん祭が斎行される。

【ご利益】
国土鎮護、健康守護、武道守護、交通安全、縁結びなど(公式HP
吉田神社(水戸市) - 水戸藩の厚い崇敬、当地で休息した日本武尊を祀る常陸国三宮
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吉田神社(水戸市)の御朱印