阿蘇神社の御祭神は甥っ子で娘婿の阿蘇開拓の神、大蛇伝説残る下り宮
[住所]熊本県阿蘇郡高森町草部2175
[電話]0967-62-1111

草部吉見神社(くさかべよしみじんじゃ)は、熊本県阿蘇郡高森町草部にある神社。近代社格では郷社。阿蘇草部吉見神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

主祭神は初代神武天皇の皇子である日子八井命(国龍神)で、ほか健磐龍命、阿蘇都比咩命など十二神を併せ祀る。

創建は阿蘇神社に先立つこと6年と言われる。近隣の大社であり、由緒としても関連のある阿蘇神社への強い意識がある。当社御祭神は阿蘇神社でも祀られている。

日子八井命は、神武天皇69年、東遷の時、日向高千穂から草部に入り、しばらく川走の窟に住んだ後、当社現鎮座地の池を干し宮居を定めた。

この時襲ってきた大蛇を斬り焼いたとされ、大蛇が血を流しながら逃げて行ったところを血引原(現 地引原)、焼かれた所を灰原といい、今もこの地名が残っている。

宮居を定めたその翌年、甥っ子にあたる健磐龍命(神八井命の御子で、阿蘇大神)が下向、これを迎え、請われて娘を健磐龍命の妃とした。

この姫が阿蘇都比咩で、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担ったという。

宮居は草を束ねて壁としたことにより、この地を草部と呼ぶようになり、さらに「此社吉宮床(ここぞよきみやとこ)」と言われたとの伝承から、社号が吉見となったと伝わる。

日子八井命と神八井命の弟が、第2代綏靖天皇

安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)には、豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され、権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めたという。

江戸期になり、寛政5年(1793年)に祠官家が復興、文化7年(1810年)には祝部家が再興された。

社殿は、弘治2年(1556年)に甲斐左近将親成によって造営され、後傷みが激しくなったため、明暦2年(1656年)に里人らによって、現在の社殿に補修された。

以後明治25年(1892年)までに18回修理されたと伝えられる。

社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿は鳥居より石段を百数十段下ったところにある、いわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置。

鵜戸神宮(宮崎県日南市)、一之宮貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられる。

社殿下の吉ノ池(八功徳水とも)と呼ばれる湧水池があり、境内地には年経た杉が繁茂している。社殿の東方300メートル程度のところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の神陵がある。

摂社として、当社から1.5キロ程度西の菅道に日子八井命の御子である天彦命と天彦命の妃比咩命をまつる三郎神社がある。

例祭は、7月31日と10月17日の夏、秋の2回で、夏には地引原の御仮屋まで御輿の御幸があるほか、社殿前の神楽殿で岩戸系の神楽三十三座が奉納される。

秋には社殿横の広場で大神御手相撲が奉納される。

朝日新聞熊本版「『気宿る場』若者に人気、大蛇伝説残る下り宮」(2011年08月28日)によると、その時点で3年ほど前から、県外の参拝者が急増しているという。

一部でパワースポットとして認知が浸透した結果だと思われる。

【ご利益】
阿蘇開拓の神、水神、武運長久、リフレッシュ
草部吉見神社 - 阿蘇神社の御祭神は甥っ子で娘婿の阿蘇開拓の神、大蛇伝説残る下り宮
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草部吉見神社の御朱印