道真の嫡男・高視が、薨去2年後に遺品を創祀、高視はこの地で死去の伝承
[住所]高知県高知市天神町19-20
[電話]088-832-2896

潮江天満宮(うしおえてんまんぐう)は、高知県高知市天神町にある神社。正式には「天満宮」のみ。近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

高知市南半分の産土神であり、市中心部に鎮座することもあって、初詣では土佐国一宮の土佐神社(高知市一宮)をしのぎ市内最多の参拝者を集めるという。

主祭神は菅原道真公と、その道真である菅原高視を高視朝臣として、また北御方(北の御方、道真の妻)を祀る。相殿神は菅原氏の祖神である天穂日命と、大海津見神

昌泰4年(901年)の昌泰の変による道真の左遷に伴い、その息子である大学頭兼右少弁菅原高視も土佐権守に左遷され、土佐国の潮江に居住した。

高視邸跡は昔は「小判畑」と呼ばれており、現在は石碑が建てられている。邸跡のある山は高視の名前から「高見山」(筆山の奥の山、正式名は皿ヶ峰)と呼ばれ、麓には現在も高見町という町名が残っている。

延喜3年(903年)に道真が薨去。道真侍臣の渡会春彦(白太夫)は高視の元へ道真の御璽(御鏡、紫御袍、神息の御神剣)観音像を届けようと、土佐国に向かった。

しかし、もともと高齢・病弱だったこともあり、長岡郡大津村船戸(現 高知市大津舟戸)の霊松山雲門寺において病を発し、延喜5年(905年)12月9日、高視に会うことなく同地で没した。

現在も岩崎山(大津北浦)には、白太夫の墓(奥津城)が残り、白太夫神社が建てられている。当社境内社にも白太夫社(白太夫神社)がある。

延喜5年(905年)に、道真の遺品を高視が受け取り、それを祀ったのが創祀とされる。その後、京で数々の異変があったこともあり、高視は延喜6年(906年)、京へ戻り従五位上に叙され大学頭に復帰している。

一方で、地元の説としては、高視は延喜6年この地で逝去、現在屋敷跡と共に、やはり墓所(奥津城)もあり、年に3回墓前祭が行われている。

どちらにしろ創祀は、北野天満宮はもちろん、太宰府天満宮と同年ほぼ同じ創建であり、天満宮として体系立てられたのは後年にしろ、御祭神が道真の神社としてはかなり早い時期の創建となる。

長宗我部氏の時代、宮地若左衛門が祭祀職を務めて以来、明治4年(1871年)の太政官布告によって社家が廃止されるまで、代々その子孫が神主職(宮司職)を世襲した。

明治6年(1873年)に県社に列格し、明治35年(1902年)の菅原道真一千年祭にあたって大幅な修築が行われている。本殿は太平洋戦争の際に焼失。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

境内社としては、白太夫神社の他、若栄社(菅公陪従の諸霊と宮地正勝)、大山祇神社(大山祇命、手箱山より勧請)、早良宮、島崎神社(島崎道和(道久))、幡竜宮がある。

例祭は7月22日で、夏大祭。2月25日は春大祭・古式菜種祭、11月18日・19日は秋祭・神幸祭で、18日が内街地区で、19日が潮江地区。

【ご利益】
学業向上、入試・各種合格、安産、厄除、家内安全など(公式HP
潮江天満宮 - 道真の嫡男・高視が、薨去2年後に遺品を創祀、高視はこの地で死去の伝承
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潮江天満宮の御朱印