秀忠の正室・お江の遺志を継いで家光が社殿整備、例祭には盆踊り
[住所]東京都港区虎ノ門5-10-14
[電話]03-3436-2765

西久保八幡神社(にしくぼはちまんじんじゃ)は、東京都港区虎ノ門にある神社。正式には八幡神社のみ。飯倉八幡宮とも。江戸八所八幡宮の一社、近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は、品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・帯中日子命(仲哀天皇)。

寛弘年間(1004年-1012年)に、多田満仲の三男源頼信が、石清水八幡宮の御神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。

太田道灌の長禄元年(1457年)における江戸城築城に際し、現在地に遷された。

2代将軍徳川秀忠の正室である崇源院は、慶長5年(1600年)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残した。

崇源院は、諱の「江(ごう)」「お江」で知られ、浅井長政とお市の方の三女で、3代将軍徳川家光の生母となる。

それを受けて、寛永11年(1634年)、社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。

元和5年(1619年)、時の鐘が建てられたが、寛文10年(1670年)に割れてしまい、現存はしていない。

享保8年(1723年)に火災に遭い、社殿や御神像などが焼失。その翌年には土蔵で社殿が再建された。

しかし、文化8年(1811年)にも火災に遭い、文政元年(1818年)に再建されたが、この二回の火災で宝物・旧記などはことごとく失われた。

ただ、このような期間でも、境内では大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助も相撲を取っている。

明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺だったが、江戸八所八幡宮の一社に数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。

天保9年(1838年)刊行の『東都歳時記』8月15日の項には下記のように見える。
毎年神輿産子の町を渡し、 西久保大通りへ御旅所を儲けて十三日より御旅出あり。今日放生会をなす。町々より隔年踊りねりものを出す事、丑卯巳未酉亥の年なり
昭和15年(1940年)、皇紀2600年を記念して、境内を整備、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。

市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」などと記す。

昭和20年(1945年)3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月には神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。

終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接したという。

昭和28年(1953年)8月、社殿を総桧木により復興、その後氏子崇敬者による奉納や協力を経て、社殿などが順次再建される。平成27年(2015年)7月には御本社神輿を復興した。

境内末社に、稲荷社(宇迦之御魂神)、人麿社(柿本人麻呂)、庚申社(猿田彦神)がある。

例祭は8月13-15日。盆踊りでも知られている。

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西久保八幡神社 - 秀忠の正室・お江の遺志を継いで家光が社殿整備、例祭には盆踊り
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