皇居の目前、ぞんざいに扱うと必ず祟る東京千代田区大手町の特殊な地
[住所]東京都千代田区大手町1-2-1
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平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。

伝承では、将門の首級は平安京まで送られ、東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。

伝承地は数か所あり、その中でも最も著名なのが、東京都中央区大手町にある首塚で、現在は東京都指定の旧跡である。

この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村で、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。

諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗した。

日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。

将門ゆかりの築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。

首塚そのものは大正12年(1923年)の関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。

その後、跡地に大蔵省の仮庁舎を実際に建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったため、現在に至るまで続く将門の祟りが完全に定着した。

昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われた。

第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理を進めるために造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件が起こる。

結果、戦後の混乱も潜り抜け、皇居の間近に位置する、高層オフィスビルが林立する、東京を代表するような街並みの中で、今でも鬱蒼とした木が茂った特殊な一帯が存続している。

加門七海『平将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)において、江戸における平将門ゆかりの神社が、一種の魔方陣として配置されているとの指摘があり、この塚は、その中で北斗七星の柄杓の器から柄に移る部分を構成するフェクダに相当するとされる。

隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされる。

敷地内には蛙(ガマガエル)の置物が数多く置かれている。将門の首が京から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、

・左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように
・誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように

蛙を供えることが今でも行われている。後者に関しては、1986年に起こった三井物産マニラ支店長誘拐事件、いわゆる若王子事件以来顕著になったという。

なお、将門の飛ぶ首に関する伝承は、御首神社(岐阜県大垣市)などにも伝わっている。

【ご利益】
無事の帰還、慰霊・鎮魂の場
平将門の首塚 - 皇居の目前、ぞんざいに扱うと必ず祟る東京千代田区大手町の特殊な地
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