成務天皇の即位時の草創、信長由来の左義長と応神天皇由来の八幡まつり
[住所]滋賀県近江八幡市宮内町257
[電話]0748-32-3151

日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある神社。近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

御祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比売神(ひめかみ)の三柱。比売神は宗像三女神

古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財。境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素。

伝承によれば、第13代成務天皇元年、成務天皇が高穴穂の宮で即位する時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。

この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、当社境内社の大嶋神社なのかは定かではない。

第15代応神天皇6年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を二つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。

第41代持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌にちなんで比牟禮社と改められたと伝わる。
天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲
正暦2年(991年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、寛弘2年(1005年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けた。現在の社殿は下の社に相当する。

近江国の国府あるいは国分寺の守護神である国府八幡宮と考えられる。

天正18年(1590年)、豊臣秀次が八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀。替地として日杉山に祀る予定であったが、文禄4年(1595年)に秀次が自害、日杉山に社殿は建立されず、現在のように一社の姿となった。

秀次自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、当社はその守護神として崇敬を集めた。

慶長5年(1600年)9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦いの後、武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十万石の地を寄附した。後に、家光や家綱も御朱印を残している。

明治9年(1876年)に郷社、大正5年(1916年)には県社に列せられる。昭和41年(1966年)、神社本庁の別表神社に加列し、現社号に改称した。

左義長まつりは毎年3月の中旬の土日に行われる。織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭。

八幡まつり(八幡祭)は、応神天皇7年、応神天皇が母神功皇后の生地・近江国(後の息長村、現在の米原市)を訪問する途中、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸。

その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の起源。毎年4月14日と15日に行われる。例祭。

境内社に地主神・大嶋神社、天満宮などがある。

江戸時代に安南貿易で活躍した近江商人西村太郎右衛門が奉納した安南渡海船額、木造誉田別尊坐像・木造比売神坐像・木造息長足姫尊坐像の3躯、木造男神坐像が国の重要文化財に指定されている。

【ご利益】
商売繁盛・出世開運、厄除、火除(公式HP
日牟禮八幡宮 - 成務天皇の即位時の草創、信長由来の左義長と応神天皇由来の八幡まつり
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日牟禮八幡宮の御朱印