仁徳天皇の皇居跡、桜の名所も往古は梅に馴染み、古典落語の舞台としても有名
[住所]大阪府大阪市中央区高津1-1-29
[電話]06-6761-2628
高津宮(こうづぐう)は、大阪府大阪市中央区にある神社。近代社格では府社、現在は神社本庁の別表神社。高津神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
難波高津宮を皇居とした第16代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の第14代仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の第15代応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の第17代履中天皇を右座に祀る。
葦姫皇后は仁徳天皇の先の皇后で、履中天皇の母でもある石之日売命(磐之媛命)のことか。兄弟に葦田宿禰がおり、その関係で葦姫とも呼ばれていた可能性がある。
また、葦田宿禰の娘が黒比売命で、履中天皇の皇后であり、葦姫皇后は履中皇后ではないかと見る向きもある。
平安時代の貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
安土桃山時代の天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。
なお、この比売古曽神社は『延喜式神名帳』にある「比売許曽神社(摂津国・東生郡)」に比定される式内社(名神大社・月次相嘗新嘗)の論社である。その他の論社に、大阪市東成区の比売許曽神社がある。
明治5年に府社に列格した。明治32年(1899年)、大阪府が仁徳天皇1500年大祭を高津宮と難波神社で行った際に記念建立した「高津宮址」が大阪府立高津高等学校(大阪市天王寺区)の構内に現存する。
大正10年(1921年)に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市……」と歌われている。
なお、高津宮に関しては、市内天王寺区に東高津宮がある。
昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が焼失したが、昭和36年(1961年)10月に再建された。
社殿が再建された昭和30年代から、当時の宮司らの手によって境内や隣接する高津公園にソメイヨシノなど約100本のサクラが植えられた。高津宮では毎年3月下旬から4月上旬にかけては「桜まつり」が催されて多くの花見客で賑わう。
古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心として賑わっていた。
境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、落語の寄席や文楽などが行われている。高津の富亭での寄席には五代目桂文枝一門がかかわっており、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも「高津の富亭」で開かれた「くろもん寄席」である。
文枝が亡くなった翌年の平成18年(2006年)3月、境内に桂文枝の石碑が建立された。
境内社には上述の比売古曽神社の他、高倉稲荷神社、安井稲荷神社、白菊神社(草野姫命)、千年神社(大山姫命)、常高神社(大山祇神)がある。また、陰陽石がある。
本殿西方に、西坂がある。俗に縁切坂と呼ばれていた。
その昔、この坂は三曲り半に道が曲がっていて『摂陽奇観』巻六高津の条は「高津西ノ坂世俗去り状坂といふ三下り半に曲がりたる由也」とある。
明治中期に改修され、明治後期に南北両方から登る階段が造られ、相合坂と呼ぶようになった。
高津の西坂で悪縁を断ち、相合坂で良縁を結ぶ、と呼ばれ、相合坂では、男女それぞれ南側と北側から登り、ちょうど頂点のところで出会うと相性がよいと言われている。
現在は桜で有名な当宮であるが、表参道の中ほどに梅乃橋がある。明和5年(1768年)に奉納されたもので、この橋の近辺には“梅乃井”があり、また表参道を出て坂を上がった谷町筋あたりが“梅ヶ辻”と呼ばれるなど、当宮は元来梅となじみ深い。
例祭は7月18日。1月15日はトンド祭(とんど祭)で、近年は木村充揮による野外ライブが恒例となっている。
【ご利益】
家内安全、子孫繁栄、縁結び、五穀豊穣・商売繁盛(公式HP)
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高津宮(こうづぐう)は、大阪府大阪市中央区にある神社。近代社格では府社、現在は神社本庁の別表神社。高津神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
難波高津宮を皇居とした第16代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の第14代仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の第15代応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の第17代履中天皇を右座に祀る。
葦姫皇后は仁徳天皇の先の皇后で、履中天皇の母でもある石之日売命(磐之媛命)のことか。兄弟に葦田宿禰がおり、その関係で葦姫とも呼ばれていた可能性がある。
また、葦田宿禰の娘が黒比売命で、履中天皇の皇后であり、葦姫皇后は履中皇后ではないかと見る向きもある。
平安時代の貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
安土桃山時代の天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。
なお、この比売古曽神社は『延喜式神名帳』にある「比売許曽神社(摂津国・東生郡)」に比定される式内社(名神大社・月次相嘗新嘗)の論社である。その他の論社に、大阪市東成区の比売許曽神社がある。
明治5年に府社に列格した。明治32年(1899年)、大阪府が仁徳天皇1500年大祭を高津宮と難波神社で行った際に記念建立した「高津宮址」が大阪府立高津高等学校(大阪市天王寺区)の構内に現存する。
大正10年(1921年)に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市……」と歌われている。
なお、高津宮に関しては、市内天王寺区に東高津宮がある。
昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が焼失したが、昭和36年(1961年)10月に再建された。
社殿が再建された昭和30年代から、当時の宮司らの手によって境内や隣接する高津公園にソメイヨシノなど約100本のサクラが植えられた。高津宮では毎年3月下旬から4月上旬にかけては「桜まつり」が催されて多くの花見客で賑わう。
古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心として賑わっていた。
境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、落語の寄席や文楽などが行われている。高津の富亭での寄席には五代目桂文枝一門がかかわっており、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも「高津の富亭」で開かれた「くろもん寄席」である。
文枝が亡くなった翌年の平成18年(2006年)3月、境内に桂文枝の石碑が建立された。
境内社には上述の比売古曽神社の他、高倉稲荷神社、安井稲荷神社、白菊神社(草野姫命)、千年神社(大山姫命)、常高神社(大山祇神)がある。また、陰陽石がある。
本殿西方に、西坂がある。俗に縁切坂と呼ばれていた。
その昔、この坂は三曲り半に道が曲がっていて『摂陽奇観』巻六高津の条は「高津西ノ坂世俗去り状坂といふ三下り半に曲がりたる由也」とある。
明治中期に改修され、明治後期に南北両方から登る階段が造られ、相合坂と呼ぶようになった。
高津の西坂で悪縁を断ち、相合坂で良縁を結ぶ、と呼ばれ、相合坂では、男女それぞれ南側と北側から登り、ちょうど頂点のところで出会うと相性がよいと言われている。
現在は桜で有名な当宮であるが、表参道の中ほどに梅乃橋がある。明和5年(1768年)に奉納されたもので、この橋の近辺には“梅乃井”があり、また表参道を出て坂を上がった谷町筋あたりが“梅ヶ辻”と呼ばれるなど、当宮は元来梅となじみ深い。
例祭は7月18日。1月15日はトンド祭(とんど祭)で、近年は木村充揮による野外ライブが恒例となっている。
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