綱敷と行衛という二つの天満宮が合併、洛陽天満宮二十五社順拝の一社
[住所]京都府京都市下京区西七条北東野町4
[電話]075-313-2941
綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)は、京都府京都市下京区にある神社。御祭神は菅原道真である。御朱印の有無は不明。
現在は松尾大社の境外末社となり、管理が行われていると考えられるため、松尾大社に問合せをするのも可。
もとは、綱敷天満宮と行衛天満宮という二つの天満宮。これが昭和9年(1934年)に合併したものらしい。
現在地は綱敷天満宮があったところで、その西に行衛天満宮があったという。この二つの天満宮の創建は不詳。
綱敷天満宮は、菅原道真が筑紫に左遷され、博多仁上陸した時、船の綱を敷いて御座としたところ、一夜にして白髪となった。
道真のその様を画にし、綱敷天神像とか、一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祀ったことに由来するという。
行衛天満宮は鞠負天満宮が本来は正しいとされ、右京の西鞠負小路に面していたことからこの社名になった。
西鞠負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門を経て吉祥院天満宮に通じる道であり、道真はこの道を利用して吉祥院に通ったといわれている。
この二つの天満宮はいずれも近世の京都で盛んになった天神信仰により、徐々に構成されていったと思われる、洛陽天満宮二十五社順拝の一社でもある。特に綱敷天満宮は、
・洛陽七天神 - 北野天満宮所蔵『記録』(1699年)
・洛陽順参二十五ケ所 - 『都すゞめ案内者』(1708年ごろ)
・洛陽二十五社順拝 - 北野天満宮所蔵『日記』(1823年)
以上のいずれにも記載されている数少ない神社で、北野天満宮などとともに、近世京都の天神信仰の中心地になっていたとみられる。
行衛天満宮は上記のうち、『都すゞめ案内者』「洛陽順参二十五ケ所」のみに記載されている。
境内には、道真の世話係だった渡会春彦翁を祀る摂社・白大夫大神社と、末社・末吉大明神社がある。社名、御祭神ともに不詳の末社もある。
【ご利益】
学問・学業成就
【関連記事】
・洛陽天満宮二十五社順拝 - 近世江戸期150年に渡って語り継がれた京都の天神めぐり25社
・京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧
[電話]075-313-2941
綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)は、京都府京都市下京区にある神社。御祭神は菅原道真である。御朱印の有無は不明。
現在は松尾大社の境外末社となり、管理が行われていると考えられるため、松尾大社に問合せをするのも可。
もとは、綱敷天満宮と行衛天満宮という二つの天満宮。これが昭和9年(1934年)に合併したものらしい。
現在地は綱敷天満宮があったところで、その西に行衛天満宮があったという。この二つの天満宮の創建は不詳。
綱敷天満宮は、菅原道真が筑紫に左遷され、博多仁上陸した時、船の綱を敷いて御座としたところ、一夜にして白髪となった。
道真のその様を画にし、綱敷天神像とか、一夜白髪の御影と呼び、社名はその神像を祀ったことに由来するという。
行衛天満宮は鞠負天満宮が本来は正しいとされ、右京の西鞠負小路に面していたことからこの社名になった。
西鞠負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門を経て吉祥院天満宮に通じる道であり、道真はこの道を利用して吉祥院に通ったといわれている。
この二つの天満宮はいずれも近世の京都で盛んになった天神信仰により、徐々に構成されていったと思われる、洛陽天満宮二十五社順拝の一社でもある。特に綱敷天満宮は、
・洛陽七天神 - 北野天満宮所蔵『記録』(1699年)
・洛陽順参二十五ケ所 - 『都すゞめ案内者』(1708年ごろ)
・洛陽二十五社順拝 - 北野天満宮所蔵『日記』(1823年)
以上のいずれにも記載されている数少ない神社で、北野天満宮などとともに、近世京都の天神信仰の中心地になっていたとみられる。
行衛天満宮は上記のうち、『都すゞめ案内者』「洛陽順参二十五ケ所」のみに記載されている。
境内には、道真の世話係だった渡会春彦翁を祀る摂社・白大夫大神社と、末社・末吉大明神社がある。社名、御祭神ともに不詳の末社もある。
【ご利益】
学問・学業成就
【関連記事】
・洛陽天満宮二十五社順拝 - 近世江戸期150年に渡って語り継がれた京都の天神めぐり25社
・京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧
コメント