皇紀、神武天皇即位紀元。日本の始まり。紀元前660年のこと。CIA(アメリカ中央情報局)のウェブサイトにある『ザ・ワールド・ファクトブック』(The World Factbook)のうち、「独立」(Independence)の項目では、この紀元前660年が伝承的日付(traditional date)として併記されています。
今では公には全く使われることがなくなっている皇紀ですし、なぜこの年に設定されたのか、など研究がだいぶ進んできてはいますが、皇紀が定量的に求められたのは江戸期で、制定は明治期と比較的新しいもの。
『古事記』と『日本書紀』に基づくこの定量把握。まあ、ヤマト政権の成立が紀元後3世紀ごろと言われている現在、初代神武天皇の即位がそれから900年もさかのぼるものが、面と向かって取り扱われないのはやむを得ないかもしれません。
しかし、整理してみると、ちょっとだけ面白い事象にぶつかります。
それこそ記紀編集期には編集者も思いもしなかったであろう、現代使われている時代区分との摩訶不思議な符号です。
今使われている時代区分から言えば、古墳時代終末期・飛鳥時代初期と言えます。つまり『古事記』は古墳時代までを描いた歴史書だ、ということができます。
まあ、『古事記』が推古天皇で終了、というのは結構知られていますので、これ自体はそう目新しくもなく。
飛鳥時代からは新時代。一般的に推古天皇元年から始まる飛鳥時代は、西暦593年のことで、皇紀1253年に当たります。
つまり、『古事記』の中巻と下巻はおよそ1200年の歴史が詰まっている、ということになります。
この時に神武天皇が本当に史実として即位したかどうかはともかく、ちょうどまさに縄文と弥生の画期に当たっていることは間違いありません。
『古事記』上巻までが縄文時代、中巻から弥生時代に突入する、とでもいうように。『古事記』の神代は縄文時代、人代からは弥生時代、という、何とも抜群の符合です。
初代神武天皇元年というのは、記紀の思惑として、縄文と弥生の画期である、という設定があったかのよう。
もちろん記紀編集の時代に縄文・弥生の概念はなかったはずであり、あくまでも偶然というべきなのでしょうが、伝承として、何らかの画期が伝わり続け、その結果が記紀編集に影響を与えた、のかもしれません。
これが3世紀半ば、『魏志倭人伝』に登場してくる卑弥呼の時代にも相当しますが、このあたりだろう、と言われています。この時期を見てみると。
実は西暦紀元270年は第15代応神天皇元年に当たります。その前の69年間ほど、応神天皇の母に当たる神功皇后の摂政期間が続きます。
『古事記』では中巻の終盤、第16代仁徳天皇(西暦314年が元年)からが下巻になります。
『古事記』を読んでいても、神功皇后・応神天皇で、明らかにその前までと雰囲気ががらりと変わるのに気づきます。
この直前に何があったかというと、分かりやすい例で言えば、ヤマトタケル(第12代景行天皇の皇子)の冒険譚。第13代成務天皇はヤマトタケルの異母弟、第14代仲哀天皇はヤマトタケルの子となります。
何か大変牧歌的な印象を受けます。弥生時代終盤的な、といえば、言いすぎでしょうが。
そして神功皇后の編。いきなり、何の前触れもなく神功皇后の神懸りの話から始まります。鬼道に仕えた卑弥呼と、皇紀としては同時代。そして、その旦那に当たる仲哀天皇が暗闇の中で急死するわけです。
おどろおどろしいですが、何やら時代を画すような雰囲気がそこにあることは間違いありません。何よりも半島との交流が飛躍的に多くなるのが特徴です。
その直後に三韓征伐、応神天皇の誕生と続いていくわけですが、神功皇后の摂政期間は70年近くと思いのほか長くなるものの、まさに前時代の清算、新時代の幕開け準備の期間のように、弥生時代終末期・古墳時代草創期とでもいうような時期に相当するわけです。
そして、西暦270年、第15代応神天皇が登場して、名実ともに古墳時代に突入、という流れになる。皇紀930年と、切りも良いのは御愛嬌かもしれませんが。
このあたりも、応神天皇からの新王朝説、応神天皇からが実在確実な天皇などの説が出てくることにもつながってくるのかもしれませんが。
●皇紀元年、初代神武天皇元年(B.C.660年)は縄文時代から弥生時代の画期
→『古事記』中巻の始まり
●皇紀930年、第15代応神天皇元年(270年)は弥生時代から古墳時代の画期
→『古事記』中巻の最終盤、もうすぐ下巻
●皇紀1253年、第33代推古天皇元年(593年)は古墳時代と飛鳥時代の画期
→ほぼ『古事記』下巻つまり『古事記』終了
今では公には全く使われることがなくなっている皇紀ですし、なぜこの年に設定されたのか、など研究がだいぶ進んできてはいますが、皇紀が定量的に求められたのは江戸期で、制定は明治期と比較的新しいもの。
『古事記』と『日本書紀』に基づくこの定量把握。まあ、ヤマト政権の成立が紀元後3世紀ごろと言われている現在、初代神武天皇の即位がそれから900年もさかのぼるものが、面と向かって取り扱われないのはやむを得ないかもしれません。
しかし、整理してみると、ちょっとだけ面白い事象にぶつかります。
それこそ記紀編集期には編集者も思いもしなかったであろう、現代使われている時代区分との摩訶不思議な符号です。
『古事記』の終わりと飛鳥時代の始まり
『古事記』をベースに考えると、その終わりは第33代推古天皇まで。正確には第34代舒明天皇も少し登場してきます。今使われている時代区分から言えば、古墳時代終末期・飛鳥時代初期と言えます。つまり『古事記』は古墳時代までを描いた歴史書だ、ということができます。
まあ、『古事記』が推古天皇で終了、というのは結構知られていますので、これ自体はそう目新しくもなく。
飛鳥時代からは新時代。一般的に推古天皇元年から始まる飛鳥時代は、西暦593年のことで、皇紀1253年に当たります。
つまり、『古事記』の中巻と下巻はおよそ1200年の歴史が詰まっている、ということになります。
『古事記』上巻までは縄文時代、中巻から弥生時代
さて、では、皇紀元年、つまり紀元前660年というのは、考古学・歴史学にとってどのような時代か、といえば、まだまだ異論も多いですし、固まっていないのが現状ですが、縄文時代晩期・弥生時代早期に当たります。この時に神武天皇が本当に史実として即位したかどうかはともかく、ちょうどまさに縄文と弥生の画期に当たっていることは間違いありません。
『古事記』上巻までが縄文時代、中巻から弥生時代に突入する、とでもいうように。『古事記』の神代は縄文時代、人代からは弥生時代、という、何とも抜群の符合です。
初代神武天皇元年というのは、記紀の思惑として、縄文と弥生の画期である、という設定があったかのよう。
もちろん記紀編集の時代に縄文・弥生の概念はなかったはずであり、あくまでも偶然というべきなのでしょうが、伝承として、何らかの画期が伝わり続け、その結果が記紀編集に影響を与えた、のかもしれません。
弥生時代と古墳時代の画期と、『古事記』
さて、では考古学・歴史学にとって、この『古事記』が描いたおよそ1200年の間にもう一つ画期があります。弥生時代と古墳時代の画期です。これが3世紀半ば、『魏志倭人伝』に登場してくる卑弥呼の時代にも相当しますが、このあたりだろう、と言われています。この時期を見てみると。
実は西暦紀元270年は第15代応神天皇元年に当たります。その前の69年間ほど、応神天皇の母に当たる神功皇后の摂政期間が続きます。
『古事記』では中巻の終盤、第16代仁徳天皇(西暦314年が元年)からが下巻になります。
『古事記』を読んでいても、神功皇后・応神天皇で、明らかにその前までと雰囲気ががらりと変わるのに気づきます。
この直前に何があったかというと、分かりやすい例で言えば、ヤマトタケル(第12代景行天皇の皇子)の冒険譚。第13代成務天皇はヤマトタケルの異母弟、第14代仲哀天皇はヤマトタケルの子となります。
何か大変牧歌的な印象を受けます。弥生時代終盤的な、といえば、言いすぎでしょうが。
そして神功皇后の編。いきなり、何の前触れもなく神功皇后の神懸りの話から始まります。鬼道に仕えた卑弥呼と、皇紀としては同時代。そして、その旦那に当たる仲哀天皇が暗闇の中で急死するわけです。
おどろおどろしいですが、何やら時代を画すような雰囲気がそこにあることは間違いありません。何よりも半島との交流が飛躍的に多くなるのが特徴です。
その直後に三韓征伐、応神天皇の誕生と続いていくわけですが、神功皇后の摂政期間は70年近くと思いのほか長くなるものの、まさに前時代の清算、新時代の幕開け準備の期間のように、弥生時代終末期・古墳時代草創期とでもいうような時期に相当するわけです。
そして、西暦270年、第15代応神天皇が登場して、名実ともに古墳時代に突入、という流れになる。皇紀930年と、切りも良いのは御愛嬌かもしれませんが。
このあたりも、応神天皇からの新王朝説、応神天皇からが実在確実な天皇などの説が出てくることにもつながってくるのかもしれませんが。
まとめ
●『古事記』上巻は縄文時代、中巻からは弥生時代に突入しているような感じ●皇紀元年、初代神武天皇元年(B.C.660年)は縄文時代から弥生時代の画期
→『古事記』中巻の始まり
●皇紀930年、第15代応神天皇元年(270年)は弥生時代から古墳時代の画期
→『古事記』中巻の最終盤、もうすぐ下巻
●皇紀1253年、第33代推古天皇元年(593年)は古墳時代と飛鳥時代の画期
→ほぼ『古事記』下巻つまり『古事記』終了
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