サルタヒコ殺人事件 - 伊勢神宮の創建に関連? 国譲りに匹敵する大和政権のトラウマか?
サルタヒコが多すぎる、と言いましたが、では実際、『古事記』では、サルタヒコはどのように描かれているのでしょうか。こちらに『古事記』全体の現代語訳の流れの一部として掲載していますが、改めて、原文に比較的忠実に訳出ししてみました。

ニニギが降臨しようとした時、天の八衢で、上は高天原を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神がいた。

そこで、アマテラスタカミムスヒノカミアメノウズメに勅(みことのり)し、「オマエはか弱き女と言えども、目力の強い神だ。我が御子の天降る道にいるあの者の所に行って、問いただせ」。

アメノウズメがそのようにすると、その神は、「私は国津神、名はサルタヒコ。天神の御子が天降ると聞いて、仕えるために待っていた」と答えた。

(中略。サルタヒコは一旦退場。ニニギの随神の話や、「竺紫日向之高千穗之久士布流多気」への降臨の様子など)

ニニギはアメノウズメに勅し、「先に仕えたサルタヒコという者、オマエが初めに身元を明らかにしたのだから、送ってやって来い。その神の名をオマエが負え」。

これが、猿女君などと、サルタヒコという男神の名を負ってはいても、女も猿女君と呼ばれることになる所以。

サルタヒコは、阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしている時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死んだ。

この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、サルタヒコが吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」が生まれた。

サルタヒコを送り届けたアメノウズメは、魚介類を集めて、「天神の御子に仕えるか?」と問うたところ、ほとんどの魚は「仕えます」と答えたが、ナマコだけは何も話さなかった。

そこでアメノウズメはナマコに「この口か、何も答えないのはこの口か!」と言い、小刀でその口を切り裂いた。ナマコの口が切り裂かれているのはこのためである。

こうした事情により、後世においても、志摩の贄を天皇・朝廷に奉る役目は猿女君が担うことになった。
以上です。これだけでもツッコミどころ満載ですが、そこは一旦置いておいて、『日本書紀』の該当部分を見てみます。
天孫降臨の先駆けの者が報告するには、「神がいます。天の八衢の所に。衢神ですな。その鼻は長大で、背丈もデカい。口元は光り輝き、目は八咫鏡のように照り輝き、赤かがちのようです」

そこでアメノウズメに命じて、「オマエは目力がある。その神の所に行って事情を問いただせ」。

アメノウズメは、乳を露わに、裳帯(もひも)を臍の下に垂らし、嘲笑い、勝ち誇ったようにその神と向き合った。

衢神「アメノウズメとやら、どういう了見ぞ?」

アメノウズメ「アマテラス様の御子のおいでになる道に、かく立ちふさがる神は何者ぞ?」

衢神「アマテラス様の御子が降臨なさろうとしていると聞いた。それで迎えに来て待っていたのだ。私の名はサルタヒコ」

アメノウズメ「オマエが導くのか、わらわが導くのか?」

サルタヒコ「私が先立ち、導こう」

アメノウズメ「オマエはどこに行くのか? 皇孫はどこに行くのか?」

サルタヒコ「天神の御子は筑紫の日向の高千穂のくしふるたけへ、私は伊勢の狭長田の五十鈴の川上へ」

また、サルタヒコは言う。

「私の身元を確認したのはオマエだ。だからお前は、私を送り届けるべし」

アメノウズメ、戻って状況を報告。皇孫は、そこで天の磐座を離れ、天の八重雲をかき分け、天降った。サルタヒコの言う通り、皇孫は筑紫の日向の高千穂のくしふるたけに到着した。

サルタヒコは伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到着した。アメノウズメはサルタヒコの乞うままに、それに付き添い、侍り、送り届けた。

皇孫はアメノウズメに勅し、「オマエはそのサルタヒコの神の名を氏とせよ」とした。そこで、猿女君の号を賜った。これが猿女君の由緒である。
以上です。非常に似ていますが、時には微妙に、時には大幅に違います。

1.『日本書紀』にはサルタヒコの死の場面がない
2.『日本書紀』では、サルタヒコはそもそも伊勢に行く、と言っている
3.『日本書紀』にはナマコの説話がない
4.『日本書紀』にあるサルタヒコの目の表現は、『古事記』でのヤマタノオロチと同じ
5.『日本書紀』には、アメノウズメの性描写が明確に描かれている
6.サルタヒコに付き従うアメノウズメ、両者で命令者が違う
7.アメノウズメが対サルタヒコの特使に任命されたのは、両者とも目力が決め手
8.サルタヒコの現在伝わる身体的特徴は『日本書紀』によるもので、『古事記』にはほぼない

などなど。どのように理解したらよいのでしょうか。大体同じなので、両者適度に合体してしまってよいものでしょうか。

第四点目、『日本書紀』サルタヒコ、『古事記』ヤマタノオロチはいずれも「赤かがち」というように、その“目”を形容されています。だからどうだ、ということもないのですが、天孫族から見た、国津神(葦原の中つ国の住人)のとらえた特徴として。

また、蛇足として、アマテラスにとって、降臨が子なのか、孫なのか、よく分からない場面が垣間見えます。伝承のことなので、孫を子としたとしても、それほど違和感はないことなのですが、当初は天孫降臨ではなく、天子降臨だったのではないかな、という可能性を感じるところでもあります。

どうも釈然としない『日本書紀』の流れ

さて、正直、『日本書紀』の方、これは本文ではなく、いわゆる一書曰くの部分ではあるのですが、話しの流れがよく分からない。

サルタヒコが出現して、アメノウズメの出番となって、アメノウズメはいきなり裸体となってサルタヒコに迫っていくわけです。近代から現代にかけて、サルタヒコ登場と、アメノウズメとの対峙の時のイメージとして、定着しているシーンです。

この部分『古事記』には描かれていません。エロい『古事記』が、もしこれが本当にあった(語り継がれていた)ことだったら、見逃すということはあり得るでしょうか?

また、『日本書紀』のこの描写、『古事記』にあるアメノウズメの天岩戸隠れにおけるストリップショーとほぼ同じであることも気になります。

サルタヒコが、皇孫の行き先と、自分の行き先を予言する、というのもよく分かりません。道先案内人であれば、当然、皇孫とともに一旦は九州に行くのではないでしょうか?

『日本書紀』の流れだと、サルタヒコは九州へは行かず、直接伊勢に行っているようですが、予言したことが先導とは、なかなか結びつきません。何か無理やり、何かの伏線のように、皇孫とサルタヒコを引き離そうとするかのよう。

その点、『古事記』でも、その当たり描かれていないのですが、話しの流れを見れば、当然、サルタヒコもニニギ一行とともに一旦九州へ行くか、その近くまで行った、その“功績を労わった”ニニギが、アメノウズメにサルタヒコを送り届けるよう命じた、となって、話が分かりやすい。

記紀最大の相違と、最大の謎

そして最大の違いは、サルタヒコは溺死したと『古事記』に明記されているにもかかわらず、『日本書紀』には全く触れられていない点。似たようなことは、国譲りの“諏訪”でも言えるのですが。

『古事記』の方がリアリティや臨場感がある、と感じるのは、まあ、個人差だとは思いますが、以上を踏まえて、ここでようやく、最大の謎。

記紀ともに、この説話、ここまで引っ張るほど重要なのか?

前後や全体の流れから見ても、軽く触れればいいだけじゃないの? ここまで微に入り細を穿つ説明が必要とはどうしても思えない。

『古事記』においては、「ちょっとお間抜けにも、貝に手をはさまれて事故死しました」などと、脈々と伝承するような内容ではないでしょう。

サルタヒコという道先案内人がいて、皇孫は無事に筑紫の日向の高千穂のくしふるたけに降臨しました、ではダメだったのだろうか?

まあ、ダメだったのでしょう。記紀ともにこのように残っているから。

現在では忘れられている、ここまで詳細を記さなければならなかった意味が、何かある、ということになります。

サルタヒコ殺人事件

そこで、改めて『古事記』におけるサルタヒコの死の場面を見てみると、もうこれは、殺人、としか思えなくなります。『日本書紀』では記録として抹殺したくなるような。

三つの御魂の発生など、流れからは意味不明、そして不要な描写も、加害者からは被害者サルタヒコの怨念に見えた、重要な要素かもしれない。殺人と考えればこそ、この三つの御魂は重要な役割が生じ、また臨場感を与えます。

後にナマコが出てきますが、これを普通のナマコと考える人はいないように、実行犯は明らかに“比良夫貝”に擬せられた、人だったのでしょう。

そして、サルタヒコが溺死・水死したならば、今も伊勢湾に沈む(以前は水面に浮いていた)興玉神石が、無関係と考えることも難しい。殺害現場か、墓標か、は分からないにしても。

興玉神石はサルタヒコそのものなのでしょう。

そして、この興玉神石は、今も伊勢の神宮(伊勢神宮)に行く前に禊をしなければならないとされる、二見興玉神社の御神体であり、二見興玉神社はそもそもこの興玉神石の遥拝所であるという事実。

実行犯は“比良夫貝”として、指示したのは誰か?

流れとしては現場にいた妻のアメノウズメでしょう。後ほど、ナマコの口を切り裂く気性の荒さがアメノウズメにはあります。そして、当然、アメノウズメが単独で考えて行ったわけではないでしょう。

サルタヒコ殺人事件の真相は、明らかにニニギを筆頭とした、降臨した天津神、天孫族の総意、あるいは一部の人の考えだったはずです。

何があったかはわかりませんが、国津神という系統が違うものの、降臨を助けてもらった恩人であるサルタヒコを、天孫族は裏切り、惨殺した、と、この神話は語っている、ということになります。

天孫降臨に際して、『日本書紀』がニニギとサルタヒコを九州と伊勢に意図的に振り分けたのも、サルタヒコの死に神聖なるニニギ本人を遠ざけたいという気持ちが出たからでしょうか。『古事記』が“功を労う”ような記述にしているのも、同じ要因からかもしれません。

日本最強の導きの神の誕生

こうして、日本最強の導きの神、現在では先導・交通安全も含めた、サルタヒコという神が誕生します。

殺害されたので、怨念を抱えたまま死んだんだろうと思われたために、死後に(怨霊から御霊となって)「最強」の名誉が与えられることになるわけです。菅原道真と同じ。

さて、殺害現場指揮者だったはずのアメノウズメも、結局は天孫族に捨てられたようです。記紀を読んでも、もともと地位の高い神という感じはしませんでしたし、その後の登場もなく、用済みとなって抹殺された感を受けます。

アメノウズメも、サルタヒコと対になって、あるいは単独で、全国各地で今でも丁重に祀られています。これも謎です。有名な神ではありますが、神話から考えてそこまで重要な神なのか? アメノウズメについては、後にも触れます。

ともかく、猿女君という後裔は残りつつも、記紀ともに「猿女君の由緒」を明確に記載している(伝承として残った)のは、アメノウズメへの手向け、というよりは慰霊・鎮魂に近いのでしょう。

伊勢神宮の創建と役割

伊勢神宮はつまり、サルタヒコそのものである興玉神石を遥拝してから(二見興玉神社で禊ぎをしてから)参拝することに示唆されているように、サルタヒコの怨念(加害者側の想像)を防御する防波堤の役割を担っていた、のかもしれません。

サルタヒコ自身がどのような思いで“溺死”したのかに関わらず、そこに負い目を感じ続けてきた万世一系の時の為政者による、サルタヒコ鎮魂の施設(という側面も持ち合わせている)のが、伊勢神宮なのではないでしょうか。

“神宮”と呼ばれ続けた鹿島神宮、そして対となる香取神宮、さらにいわゆる謎のトライアングル・東国三社という枠組みでかもしれませんが、それらが蝦夷と諏訪に対したように。

また、岡山の吉備津神社が、鹿島神宮と同じように、あるいは“神宮”と呼ばれたかもしれなかったように。(参考:“神宮”怨霊説を検証する - 神宮にいる歴代天皇はみな怨霊! 鹿島神宮のフシギとは?

そして、こう理解することで、『倭姫命世記』に描かれた、トヨスキイリビメヤマトヒメの二人の皇女による伊勢を求めた果て無き巡行の意味も分かってくるような気もします。

もちろん、ヤマトヒメがサルタヒコの後裔である太田命に土地を献上されたことによって、皇大神宮(内宮)が創建されたと明記されていることも無関係ではないでしょう。

最終的に、「アマテラス」が伊勢に落ち着いた、というのは、サルタヒコが、そしてその後裔及び集団が、当時大変な脅威(物的・霊的)に感じられた結果、なのでしょう。

その脅威は、丹後よりも、熊野もある南紀、吉備・出雲よりも、伊賀・近江・尾張よりも、関東よりも大きなものだった、と(いずれもヤマトヒメなど皇女の巡行ルート上にあり、いわくある地域)。

サルタヒコの死が伊勢神宮の創建に結び付いた、のなら、サルタヒコ殺人事件は、日本最大の社殿である出雲大社を容認し続けなければならなくなったオオクニヌシの国譲りに匹敵する、ヤマト政権の大きなトラウマになった、ということができます。

それは、実に明治の世まで、歴代天皇が伊勢神宮に親拝しなかった、できなかったことともリンクします。

サルタヒコ・アメノウズメ夫妻が稲荷神へ

サルタヒコと、そしてアメノウズメは、現在でも内宮の正宮を参拝すれば、参拝者が意識するしないに関わらず、ほぼ必然的に同時に参拝することになる、内宮の所管社としての興玉神宮比神として、正宮の御垣内に鎮座しています。

つまり、アマテラスを参拝すると同時に、サルタヒコとアメノウズメも参拝していることになる。

そして、正宮の御垣内に鎮座するもう一つの内宮の所管社・屋乃波比伎神は、ハヒキノカミとされます。

ハヒキノカミは、あまり有名な神とは言えないかもしれませんが、サルタヒコ・アメノウズメ夫妻と今日、密接に絡み合って丁重に祀られるウカノミタマノカミにとっては、甥っ子(兄オオトシノカミの子)にあたります。『古事記』の系譜に明記される事実です。

つまり、ウカノミタマノカミとサルタヒコ・アメノウズメ夫妻は、ハヒキノカミを通じてつながっているわけで、ここに、日本最強の神のもう一柱である稲荷神(ウカノミタマと、サルタヒコ・アメノウズメ)に結実する一つの背景も垣間見えるわけです。

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