サルタヒコは、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する神です。天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊を道案内した国津神、とされます。
『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記します。その他の異表記、例えば白鬚明神(白鬚神社)なども多数。また、興玉(おきたま)と言えば、サルタヒコを指します。
一般的に、ものすごく馴染みのある神という訳ではないかもしれませんが、所々で現在でも触れている神です。一番わかりやすいのは天狗でしょうか。天狗のモデルともされています。
また、一般的にはあまり認識されないものの、後述しますが、稲荷神の一要素でもあります。稲荷神は全国で最も祀られているとされますので、サルタヒコは日本で最もよく祀られている神の一柱となります。
道祖神と言えば、サルタヒコ、でもありますが、しかし、どうしてこのサルタヒコが、ここまで祭祀され続けているのでしょうか。
正直『古事記』での登場は多くはありませんし、意味不明な点も多い。少なくとも、オオクニヌシのように、女性遍歴を重ねて、国造りして、国譲りして(させられて?)、大きな宮殿を用意してもらって、そこに住んだ、それが今の出雲大社、という、分かりやすい由緒はありません。
しかし、『古事記』での登場は印象的ではあります。何が印象的なのか。
死の様子が明確に描かれている点です。
しかも伊勢で。
このあたり、なぜかあまり指摘されないようなのですが、伊勢はサルタヒコ最期の地。それが、現在にまで続く伊勢のイメージ形成につながっているのではないかと思えて仕方がありません。
今はそんなことはないですが、伊勢は常世、黄泉、死の世界というイメージが付いて回ります。そのイメージこそが、歴代天皇が伊勢詣でを控えた要因とも思えますが、そのイメージのそもそもは、サルタヒコの死地だったからではないでしょうか。
今の聖地としての伊勢の神宮(伊勢神宮)も、ベースとして、サルタヒコの死という忌まわしい過去があって、その負(マイナス)が正(プラス)に転換した状態、と言えなくもないかもしれません。
それぐらい、サルタヒコは伊勢や伊勢神宮と関わりが深い。
伊勢神宮周辺には、二つのサルタヒコに関わる重要な神社があります。そのうちの一つ、二見興玉神社は夫婦岩の、その先の海中に今は没している巨石・興玉神石の遥拝所です。
そして、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の正宮を守護する神にも興玉神がいます。サルタヒコと同一とされます。
南伊勢の伊勢神宮とは少し離れ、北伊勢となりますが、伊勢国一宮は二社あり、いずれもサルタヒコを主祭神とする、サルタヒコと縁深い神社であり、サルタヒコの墓まであるところがあります。
ヤマトヒメが内宮を創建できたのも、サルタヒコの子孫である太田命が、代々管理してきた土地を献上したため。『倭姫命世記』に明記されている事実です。このサルタヒコ・太田命の子孫が、先に挙げた神社の神職などとして、現在も存続しています。
内宮の正宮を守護する神には、サルタヒコの興玉神の他、妻・アメノウズメとされる宮比神がおり、二柱は“仲良く”御垣内に鎮座しています。
そしてこの夫婦は、日本最大の信仰となっている「お稲荷さん」、稲荷大神の一要素ともされます。
稲荷大神は、主体がウカノミタマノカミとされますが、総本社たる伏見稲荷大社では、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神を配祀しており、日本全国にあるお稲荷さんでは、田中大神・四大神を除く、ウカノミタマノカミ・佐田彦大神・大宮能売大神の三柱を稲荷大神としている場合が非常に多いのです。
佐田彦大神はサルタヒコ、大宮能売大神はアメノウズメ。ここでも“仲良く”夫婦で1セットで、伊勢から、お稲荷様となって今や全国各地で祀られています。
サルタヒコが多すぎる。
稲荷神ではなくても、サルタヒコは超メジャーなので、伊勢に限らず、全国各地の重要な神社に祀られている場合もあり、それはそれで理由があるのでしょうが、それを差し引いたとしても、伊勢(もちろん神宮を含む)と、サルタヒコの関係は奇妙かつ密接不可分、絶対に見逃すことのできない重要なファクターだと思われます。

[説明]神宮の参拝前に“禊のため”に訪れる神社
[社格]村社 - 別表神社
[住所]伊勢市二見町江575
[電話]0596-43-2020

[説明]サルタヒコ直系の子孫“宇治土公”ゆかり
[社格]別表神社
[住所]伊勢市宇治浦田2-1-10
[電話]0596-22-2554

[説明] サルタヒコの本宮とされる伊勢国一宮
[社格]式内社 - 伊勢国一宮 - 県社 - 別表神社
[住所]鈴鹿市山本町1871
[電話]059-371-1515

[説明]合併して都波岐神社・奈加等神社とも
[社格]式内社 - 伊勢国一宮 - 県社
[住所]鈴鹿市一ノ宮町1181
[電話]059-383-9698

[説明]妻の宮比神とともに内宮御垣内に鎮座し正宮を守護
[社格]内宮所管社30社の第2位
[住所]伊勢市宇治館町1 内宮御正宮内
[電話]-
【伊勢の神宮】
・伊勢の神宮とは? - 「伊勢神宮、正式:神宮」正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢の神宮御朱印めぐり - 125社のうち御朱印が頂けるのは、7社 めぐるのに現実的可能性
・伊勢参宮 - 二見興玉神社→外宮→内宮と猿田彦神社の御朱印、参拝順路、アクセス、所要時間
【関連記事】
・サルタヒコ殺人事件 - 伊勢神宮の創建に関連? 国譲りに匹敵する大和政権のトラウマか?
・なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
・“神宮”怨霊説を検証する - 神宮にいる歴代天皇はみな怨霊! 鹿島神宮のフシギとは?
・沢村賞の誕生秘話 - 日本球界先発投手の最大の栄誉は、沢村投手への贖罪という信仰の賜物
・お多福門が設置される神社 - 年明けから節分までの主に九州の代名詞、設置期間は?
・神社いろいろ - これで神社のおよそが分かる! 社格や形式などで神社を分類したまとめ
『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記します。その他の異表記、例えば白鬚明神(白鬚神社)なども多数。また、興玉(おきたま)と言えば、サルタヒコを指します。
一般的に、ものすごく馴染みのある神という訳ではないかもしれませんが、所々で現在でも触れている神です。一番わかりやすいのは天狗でしょうか。天狗のモデルともされています。
また、一般的にはあまり認識されないものの、後述しますが、稲荷神の一要素でもあります。稲荷神は全国で最も祀られているとされますので、サルタヒコは日本で最もよく祀られている神の一柱となります。
道祖神と言えば、サルタヒコ、でもありますが、しかし、どうしてこのサルタヒコが、ここまで祭祀され続けているのでしょうか。
正直『古事記』での登場は多くはありませんし、意味不明な点も多い。少なくとも、オオクニヌシのように、女性遍歴を重ねて、国造りして、国譲りして(させられて?)、大きな宮殿を用意してもらって、そこに住んだ、それが今の出雲大社、という、分かりやすい由緒はありません。
しかし、『古事記』での登場は印象的ではあります。何が印象的なのか。
死の様子が明確に描かれている点です。
しかも伊勢で。
このあたり、なぜかあまり指摘されないようなのですが、伊勢はサルタヒコ最期の地。それが、現在にまで続く伊勢のイメージ形成につながっているのではないかと思えて仕方がありません。
今はそんなことはないですが、伊勢は常世、黄泉、死の世界というイメージが付いて回ります。そのイメージこそが、歴代天皇が伊勢詣でを控えた要因とも思えますが、そのイメージのそもそもは、サルタヒコの死地だったからではないでしょうか。
今の聖地としての伊勢の神宮(伊勢神宮)も、ベースとして、サルタヒコの死という忌まわしい過去があって、その負(マイナス)が正(プラス)に転換した状態、と言えなくもないかもしれません。
それぐらい、サルタヒコは伊勢や伊勢神宮と関わりが深い。
伊勢神宮周辺には、二つのサルタヒコに関わる重要な神社があります。そのうちの一つ、二見興玉神社は夫婦岩の、その先の海中に今は没している巨石・興玉神石の遥拝所です。
そして、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の正宮を守護する神にも興玉神がいます。サルタヒコと同一とされます。
南伊勢の伊勢神宮とは少し離れ、北伊勢となりますが、伊勢国一宮は二社あり、いずれもサルタヒコを主祭神とする、サルタヒコと縁深い神社であり、サルタヒコの墓まであるところがあります。
ヤマトヒメが内宮を創建できたのも、サルタヒコの子孫である太田命が、代々管理してきた土地を献上したため。『倭姫命世記』に明記されている事実です。このサルタヒコ・太田命の子孫が、先に挙げた神社の神職などとして、現在も存続しています。
内宮の正宮を守護する神には、サルタヒコの興玉神の他、妻・アメノウズメとされる宮比神がおり、二柱は“仲良く”御垣内に鎮座しています。
そしてこの夫婦は、日本最大の信仰となっている「お稲荷さん」、稲荷大神の一要素ともされます。
稲荷大神は、主体がウカノミタマノカミとされますが、総本社たる伏見稲荷大社では、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神を配祀しており、日本全国にあるお稲荷さんでは、田中大神・四大神を除く、ウカノミタマノカミ・佐田彦大神・大宮能売大神の三柱を稲荷大神としている場合が非常に多いのです。
佐田彦大神はサルタヒコ、大宮能売大神はアメノウズメ。ここでも“仲良く”夫婦で1セットで、伊勢から、お稲荷様となって今や全国各地で祀られています。
サルタヒコが多すぎる。
稲荷神ではなくても、サルタヒコは超メジャーなので、伊勢に限らず、全国各地の重要な神社に祀られている場合もあり、それはそれで理由があるのでしょうが、それを差し引いたとしても、伊勢(もちろん神宮を含む)と、サルタヒコの関係は奇妙かつ密接不可分、絶対に見逃すことのできない重要なファクターだと思われます。
サルタヒコ×伊勢、主な神社
二見興玉神社

[説明]神宮の参拝前に“禊のため”に訪れる神社
[社格]村社 - 別表神社
[住所]伊勢市二見町江575
[電話]0596-43-2020
猿田彦神社

[説明]サルタヒコ直系の子孫“宇治土公”ゆかり
[社格]別表神社
[住所]伊勢市宇治浦田2-1-10
[電話]0596-22-2554
椿大神社

[説明] サルタヒコの本宮とされる伊勢国一宮
[社格]式内社 - 伊勢国一宮 - 県社 - 別表神社
[住所]鈴鹿市山本町1871
[電話]059-371-1515
都波岐神社

[説明]合併して都波岐神社・奈加等神社とも
[社格]式内社 - 伊勢国一宮 - 県社
[住所]鈴鹿市一ノ宮町1181
[電話]059-383-9698
興玉神

[説明]妻の宮比神とともに内宮御垣内に鎮座し正宮を守護
[社格]内宮所管社30社の第2位
[住所]伊勢市宇治館町1 内宮御正宮内
[電話]-
【伊勢の神宮】
・伊勢の神宮とは? - 「伊勢神宮、正式:神宮」正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢の神宮御朱印めぐり - 125社のうち御朱印が頂けるのは、7社 めぐるのに現実的可能性
・伊勢参宮 - 二見興玉神社→外宮→内宮と猿田彦神社の御朱印、参拝順路、アクセス、所要時間
【関連記事】
・サルタヒコ殺人事件 - 伊勢神宮の創建に関連? 国譲りに匹敵する大和政権のトラウマか?
・なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
・“神宮”怨霊説を検証する - 神宮にいる歴代天皇はみな怨霊! 鹿島神宮のフシギとは?
・沢村賞の誕生秘話 - 日本球界先発投手の最大の栄誉は、沢村投手への贖罪という信仰の賜物
・お多福門が設置される神社 - 年明けから節分までの主に九州の代名詞、設置期間は?
・神社いろいろ - これで神社のおよそが分かる! 社格や形式などで神社を分類したまとめ
コメント
コメント一覧 (7)
祭祀氏族を見ればおわかりになるはずです。
千葉県の銚子市に、垂仁25年創祀の猿田神社(祭神猿田彦)があり、
伊勢津彦末裔である下海上国造が奉仕してきたと考えられています。
(伊勢津彦が流れ着いたという口伝あり)
下海上国造は武蔵国造・相武国造・伯耆国造らとも同族であり、新撰姓氏録などでは天穂日命の末裔とされますが、大同類衆方では、彼らは波波伎神(事代主)の末裔と認識していたようです。
「伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社当国国造祖神を祭る伯耆薬は
伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと。」
伊勢津彦が登場するのは神武帝の時ですので時代が合わなくなってしまいすね。
確かにおっしゃる通り、この近辺は伊勢だけが
猿田彦が目立ちますね。謎です。
逆にそれだけ伊勢と猿田彦の結び付きが強い、
ともいえなくはないのかな、と。
また、猿田彦も佐太神社のように、
出雲系の要素もありますね。
なぜ、そこまで出雲系に遠慮しなければ
ならなかったのか、当時の朝廷の思考を
推定ばかりながらトレースするのも
興味深いものがあります。
当たり前のように存在している猿田彦、
でも奥が深い。非常に興味深い神ですね。
おそらく「東国の大己貴命」は、(ある程度神格が揃った)在来信仰の地主たる神々の一般呼称的な存在だと思うのですが、伊勢国に限っては地主神は猿田彦命ということになった。何らかの理由で、いわゆる出雲系の神名はつけられなかったのでしょう。
他所から来た伊勢神宮は、サルタヒコの子孫に、
伊勢の土地を譲渡されていることが、
『倭姫命世記』
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1028488690.html
に明記されています。
また、伊勢こそがサルタヒコの死地だと、
『古事記』に明記されているところでございます。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1000349743.html
これらを踏まえて、サルタヒコは伊勢で天孫族に殺され、
それが、後世の朝廷が伊勢を忌むべき地と認識した
根源ではないか、というのが私の考えです。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1042575991.html
論理的に可笑しいでしょ? 後の時代に三重が伊勢になり、猿田彦が一宮として
配されたと言う事さ。