この疑問、よく指摘されることですが、あまり明確に答えられているものはないのではないか、と思います。よく言われるのが、伊勢の神宮(伊勢神宮)の天武天皇創建説、天武天皇の私的皇祖祭祀場だったために顧みられることがなかった、というもの。
昨今のほとんどすべての伊勢神宮に関する学術書の類は、すべて、「7世紀後半、第40代天武天皇は…」から始まっているのが現状なのですが、そもそも伊勢神宮の起源は天武天皇の頃なのでしょうか?
その頃に整備が一段と進み、遷宮など今日的に見られる伊勢の神宮の諸要素が固まってきたのは間違いないのでしょうが、創祀は明らかにもっと古いと思われます。
この説に首肯しがたいのは、『古事記』『日本書紀』に散見される皇女の巡行と奉祀を全く無視している点でもあります。『倭姫命世記』はおそらく、それらの素材をもとに中世にまとまったものであり、『倭姫命世記』を伝説と切り捨てて、記紀の記述を軽視するのもおかしな話。
なぜ、このような、現代人の我々にとって意味の不明確な、恐ろしく大掛かり、かつ長距離・長期間の皇女の巡行が、脈々と語り継がれなければならなかったのか、それ自体の史実性よりは、これこそ説明されなければなりませんし、おそらく伊勢の根源に関わってくる大問題です。
また、ではなぜ、明治天皇から現在に至るまで、皇室は高度に伊勢の神宮を崇敬するようになったのでしょうか? 天武天皇説だとこの点が明確にならないのではないでしょうか。
ぶっちゃけて言えば、おそらく、伊勢神宮はあまりにも神聖すぎたので、歴代天皇や高貴な方々は意図的に避けていたのではないか、と思います。
よく引き合いに出される、歴代天皇の熊野詣好きと比較するとよく分かると思います。熊野にあって、伊勢にないもの。
それは仏教でしょう。伊勢は原則的に、一切の仏教的要素を排除してきました。
熊野はむしろ仏教の聖地となっていった要素の方が強く、それが熊野三山が今でも推す「甦り」を可能にしたのだと思います。
古来、伊勢も熊野も、何らかの事情で、常世、黄泉、つまり死の世界と認識されていたのは間違いありません。
そして、日本古来の信仰においては、死者の復活、甦り、つまり「黄泉帰り」はあり得なかった。忌むべき、避けるべきものだったはずです。
『古事記』に書かれた、黄泉の国のものを食べてその住人になったイザナミの悲惨な姿や、その後のイザナギを追いかける恐怖の姿などは、如実にそれを物語っています。(『古事記』該当部分)
熊野の「甦り」、つまり「黄泉帰り」が定着したのは、そうした日本古来の信仰を中和・希薄化できた仏教の要素を積極的に導入した結果だと思われます。つまり、熊野詣では「成仏」できる可能性がある。それは、行きたくなります。
往古からも、成仏できるのはごくごく一握りの人間であり、普通の人は、やはり死んでこそ仏になる、という考え方はもちろんあったと思います。
人は死んで神になる。…日本古来の信仰
人は死んで仏になる。…仏教要素を取り入れて変容した信仰
現在ではあまり区別されませんが、本来、前者は、祟らないでくれ、精一杯慰霊・鎮魂しますよ、という、どこか後ろ向きの要素が、実は強い。後者は、人としての至高の存在である仏になるという意味で、前向きの要素があります。
ざっくりと言ってしまえば、この違いが伊勢と熊野だったのではないでしょうか。日本古来の信仰を守り続けた伊勢と、仏教要素を積極的に取り入れ、イザナミ以来タブーだったはずの「黄泉帰り」を効果絶大のご利益として確立した熊野。
天皇親拝がゼロと多数。同じ黄泉でも、伊勢は黄泉帰り(蘇り)できない、ので、避けられた、という訳です。
神という死者を慰霊・鎮魂する施設。
忌み嫌うべきもの。しかし、敬わないわけにはいかない。できうる限り祭祀は欠かさず行う。でなければ、祟りが怖い。
まさに文字通り、「敬遠」の対象こそが神社だったのではないでしょうか。
中世から近世にかけて、多くの神社が別当寺という形で寺院による管理を受けたのは、それを中和・希薄化する意図もあったのかもしれません。
その中でも一貫して仏教を排除し、かつあまりにも神聖すぎる伊勢神宮は、まさに別格。とても親拝などできようはずがない。忌み嫌い、畏れ多く、畏み敬う、という、かなり複雑な感情。
斎宮というのは、何もしないわけにはいかない天皇家による人身御供だった、といえば言い過ぎでしょうか。
皇族・貴族 > 武家 > 庶民
武家もあまり気にしない(日常的に人殺しがある意味仕事でもあり)ですが、それでも世の中が落ち着いていくと、武家も皇族・貴族に近くなり、穢れ感覚を強めます。しかし、庶民はほとんど一切ない。そんなこと気にしていたら生きていけないので。
その結果、庶民にとって、神聖さだけが残った伊勢には大変な憧れを抱くことになる。よく言われる遷宮の大イベントも好評だったでしょう。そして、伊勢(に限らず、多くの大きな神社の)社前はいつの時でも一大歓楽街でした。
「男は一生に一度はお伊勢参りと吉原」とは、そういう意味です。両極端のものを並べたわけではなく、同義語に近い。近世までの伊勢神宮の社前には今でいうホストクラブまであったと言いますから、女性にも人気だったようです。
庶民にとっても、伊勢やその他の詣では現実の生活では得られない、別世界に行くのと同義だったでしょう。だから大人気だったし、今でも人気。
高貴な方々にとっても、伊勢に詣でる、というのは、ある意味では別世界に行く、ということ。しかし、そこは庶民感覚とは違って、文字通りの「死の世界」。仏教の加護がなければ、黄泉からは帰れない、戻れない。行く、などとんでもないし、逝ってしまう。是非とも避けなければならなかった。
ここにはまた別の信仰が加味された結果だと思います。
つまり儒教、朱子学です。
幕末明治期、そして戦前・戦中・終戦まで、国家イデオロギーといえば神道と考える人が多いかもしれませんが、むしろ根幹をなしたのは明らかに朱子学です。
朱子学の、というより儒教の最大の教えは「孝」。子の父母に対する絶対の服従。「孝」に忠実であろうとすればするほど、それは容易に祖先崇拝につながります。
もちろん、明治以前にも、儒教の影響うんぬんに限らず、日本にも先祖崇拝は普遍的に存在していたでしょう。それでも、あまりにも神聖すぎた、つまり“死穢”で満たされていたと考えられた伊勢は、高貴な方々にとって敬遠されなければならなかった。
そもそも江戸中期には、歴代天皇の陵墓の所在さえ分からない、という状態だったので、穢に限らず、先祖崇拝を実践しようという意志や時間、財政力などなど、もともと希薄だった、というのもあると思います。
いや、陵墓は死穢だからこそ、祖先の陵墓の所在地さえ伝えられなかった、のかもしれません。中世から近世の天皇家は、主に財政面で困窮したために、歴代天皇の古墳の所在地が分からなくなった、というのは、そう考えると説得力がない。
普通に考えれば、ご先祖様のお墓、庶民でもできうる限りはケアしたいと思うし、当時だってそう思われたでしょう。それができなかった、ということは、陵墓の死穢性を極端に忌み嫌った、というのが正解のような気がします。だから、長い年月があったとしても、いつしか、歴代天皇の陵は忘れ去られた。
伊勢の神宮も、その死穢こそが、親拝を避けられた理由だったのではないか? 伊勢の神宮の死穢の正体に関しては、別稿に譲ります。
時代が変わって、朱子学が優位となった時代、というより、明治維新は朱子学・水戸学が原動力でなされたわけですが、世の中が落ち着けばなおさら、突き詰めればご先祖様が何よりも大事、何はさておき、ご先祖様にお参りしなければ、となった。
“死穢”云々はそれこそご先祖様に対して大変な不敬、と、ここで考え方が180度転換したのではないでしょうか。熊野が「蘇り」を獲得したのと同じことが、明治の世に、また違う方向で起きた、ということにもなります。
近世末から近代にかけての、それこそ政治的な一大テーマが、古墳の比定になった、というのも、この角度から論じられなければなりませんし、「近代の比定だから、信じられん」と簡単に切り捨てるよりは、その当時の情熱こそ、問題にすべきだと思います。
ご先祖様を大事にするという感覚は今現在も一般的に受け継がれており、それを最も色濃く残し、伝統として定着している、というよりも、日々の祭祀、つまり日々の生活そのものとなっているのが皇室なのではないでしょうか。
-------------
かなり乱暴な見解かもしれませんが、このように見ていくと、日本の信仰という一本の筋道から、「なぜ歴代天皇は伊勢神宮の参拝をしなかった? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?」という疑問は解けそうですし、また、そこに日本人の信仰の深遠も垣間見れそうな気がします。
【伊勢の神宮】
・伊勢の神宮とは? - 「伊勢神宮、正式:神宮」正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢の神宮御朱印めぐり - 125社のうち御朱印が頂けるのは、7社 めぐるのに現実的可能性
・伊勢参宮 - 二見興玉神社→外宮→内宮と猿田彦神社の御朱印、参拝順路、アクセス、所要時間
・伊勢神宮125社めぐり - 整理すると73の社・境内、10の“めぐり”でコンプリート目指す
【関連記事】
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・猿田彦が多すぎる - 死地に伊勢神宮創建? 伊勢とサルタヒコの奇妙な、不可分な関係
・“神宮”怨霊説を検証する - 神宮にいる歴代天皇はみな怨霊! 鹿島神宮のフシギとは?
・伊勢の神宮の謎20 - “神宮が特別な訳?”今まで誰にも気づかれず解かれずの深秘の謎
・二所宗廟 - 伊勢神宮と石清水八幡宮、古代は宇佐神宮とも、謎多き伊勢と八幡神の二地
・京都三熊野 - 後白河法皇が整備した京の熊野神社三社、熊野三山同様に本宮・新宮・那智
・沢村賞の誕生秘話 - 日本球界先発投手の最大の栄誉は、沢村投手への贖罪という信仰の賜物
伊勢神宮の天武創建説について
しかし、本当にそうでしょうか?昨今のほとんどすべての伊勢神宮に関する学術書の類は、すべて、「7世紀後半、第40代天武天皇は…」から始まっているのが現状なのですが、そもそも伊勢神宮の起源は天武天皇の頃なのでしょうか?
その頃に整備が一段と進み、遷宮など今日的に見られる伊勢の神宮の諸要素が固まってきたのは間違いないのでしょうが、創祀は明らかにもっと古いと思われます。
この説に首肯しがたいのは、『古事記』『日本書紀』に散見される皇女の巡行と奉祀を全く無視している点でもあります。『倭姫命世記』はおそらく、それらの素材をもとに中世にまとまったものであり、『倭姫命世記』を伝説と切り捨てて、記紀の記述を軽視するのもおかしな話。
なぜ、このような、現代人の我々にとって意味の不明確な、恐ろしく大掛かり、かつ長距離・長期間の皇女の巡行が、脈々と語り継がれなければならなかったのか、それ自体の史実性よりは、これこそ説明されなければなりませんし、おそらく伊勢の根源に関わってくる大問題です。
また、ではなぜ、明治天皇から現在に至るまで、皇室は高度に伊勢の神宮を崇敬するようになったのでしょうか? 天武天皇説だとこの点が明確にならないのではないでしょうか。
歴代天皇が熊野詣でを好んだ訳
二所宗廟、江戸期には四所宗廟とまで言われ、そのいずれにも入っている、聖地・伊勢神宮。ぶっちゃけて言えば、おそらく、伊勢神宮はあまりにも神聖すぎたので、歴代天皇や高貴な方々は意図的に避けていたのではないか、と思います。
よく引き合いに出される、歴代天皇の熊野詣好きと比較するとよく分かると思います。熊野にあって、伊勢にないもの。
それは仏教でしょう。伊勢は原則的に、一切の仏教的要素を排除してきました。
熊野はむしろ仏教の聖地となっていった要素の方が強く、それが熊野三山が今でも推す「甦り」を可能にしたのだと思います。
古来、伊勢も熊野も、何らかの事情で、常世、黄泉、つまり死の世界と認識されていたのは間違いありません。
そして、日本古来の信仰においては、死者の復活、甦り、つまり「黄泉帰り」はあり得なかった。忌むべき、避けるべきものだったはずです。
『古事記』に書かれた、黄泉の国のものを食べてその住人になったイザナミの悲惨な姿や、その後のイザナギを追いかける恐怖の姿などは、如実にそれを物語っています。(『古事記』該当部分)
熊野の「甦り」、つまり「黄泉帰り」が定着したのは、そうした日本古来の信仰を中和・希薄化できた仏教の要素を積極的に導入した結果だと思われます。つまり、熊野詣では「成仏」できる可能性がある。それは、行きたくなります。
死んで神になる、仏になるの違い
今では成仏はほぼ、死と同義になっていますが、仏教の本来は、生きながら成仏、つまり仏になることを目指すことであり、死とはほとんど関係ないどころか、無縁であり、最も遠いところにあります。往古からも、成仏できるのはごくごく一握りの人間であり、普通の人は、やはり死んでこそ仏になる、という考え方はもちろんあったと思います。
人は死んで神になる。…日本古来の信仰
人は死んで仏になる。…仏教要素を取り入れて変容した信仰
現在ではあまり区別されませんが、本来、前者は、祟らないでくれ、精一杯慰霊・鎮魂しますよ、という、どこか後ろ向きの要素が、実は強い。後者は、人としての至高の存在である仏になるという意味で、前向きの要素があります。
ざっくりと言ってしまえば、この違いが伊勢と熊野だったのではないでしょうか。日本古来の信仰を守り続けた伊勢と、仏教要素を積極的に取り入れ、イザナミ以来タブーだったはずの「黄泉帰り」を効果絶大のご利益として確立した熊野。
天皇親拝がゼロと多数。同じ黄泉でも、伊勢は黄泉帰り(蘇り)できない、ので、避けられた、という訳です。
神社は“死穢”だった!?
つまり、伊勢は、というより、神社そのものは、天皇にとって、高貴な方々にとって、“死穢”だったのではないかという気がします。神という死者を慰霊・鎮魂する施設。
忌み嫌うべきもの。しかし、敬わないわけにはいかない。できうる限り祭祀は欠かさず行う。でなければ、祟りが怖い。
まさに文字通り、「敬遠」の対象こそが神社だったのではないでしょうか。
中世から近世にかけて、多くの神社が別当寺という形で寺院による管理を受けたのは、それを中和・希薄化する意図もあったのかもしれません。
その中でも一貫して仏教を排除し、かつあまりにも神聖すぎる伊勢神宮は、まさに別格。とても親拝などできようはずがない。忌み嫌い、畏れ多く、畏み敬う、という、かなり複雑な感情。
斎宮というのは、何もしないわけにはいかない天皇家による人身御供だった、といえば言い過ぎでしょうか。
伊勢詣でが庶民に人気だった訳
庶民に伊勢詣でが大人気だったのはなぜでしょう。そもそも、身分が低くなればなるほど、“死穢”のような感覚は希薄化し、鈍感になり、霧消します。皇族・貴族 > 武家 > 庶民
武家もあまり気にしない(日常的に人殺しがある意味仕事でもあり)ですが、それでも世の中が落ち着いていくと、武家も皇族・貴族に近くなり、穢れ感覚を強めます。しかし、庶民はほとんど一切ない。そんなこと気にしていたら生きていけないので。
その結果、庶民にとって、神聖さだけが残った伊勢には大変な憧れを抱くことになる。よく言われる遷宮の大イベントも好評だったでしょう。そして、伊勢(に限らず、多くの大きな神社の)社前はいつの時でも一大歓楽街でした。
「男は一生に一度はお伊勢参りと吉原」とは、そういう意味です。両極端のものを並べたわけではなく、同義語に近い。近世までの伊勢神宮の社前には今でいうホストクラブまであったと言いますから、女性にも人気だったようです。
庶民にとっても、伊勢やその他の詣では現実の生活では得られない、別世界に行くのと同義だったでしょう。だから大人気だったし、今でも人気。
高貴な方々にとっても、伊勢に詣でる、というのは、ある意味では別世界に行く、ということ。しかし、そこは庶民感覚とは違って、文字通りの「死の世界」。仏教の加護がなければ、黄泉からは帰れない、戻れない。行く、などとんでもないし、逝ってしまう。是非とも避けなければならなかった。
明治天皇による親拝は、考え方が180度転換したため
さて、高貴な方々がそれほど避け続けてきた伊勢神宮。明治天皇からなぜ親拝するようになったのでしょうか。ここにはまた別の信仰が加味された結果だと思います。
つまり儒教、朱子学です。
幕末明治期、そして戦前・戦中・終戦まで、国家イデオロギーといえば神道と考える人が多いかもしれませんが、むしろ根幹をなしたのは明らかに朱子学です。
朱子学の、というより儒教の最大の教えは「孝」。子の父母に対する絶対の服従。「孝」に忠実であろうとすればするほど、それは容易に祖先崇拝につながります。
もちろん、明治以前にも、儒教の影響うんぬんに限らず、日本にも先祖崇拝は普遍的に存在していたでしょう。それでも、あまりにも神聖すぎた、つまり“死穢”で満たされていたと考えられた伊勢は、高貴な方々にとって敬遠されなければならなかった。
そもそも江戸中期には、歴代天皇の陵墓の所在さえ分からない、という状態だったので、穢に限らず、先祖崇拝を実践しようという意志や時間、財政力などなど、もともと希薄だった、というのもあると思います。
いや、陵墓は死穢だからこそ、祖先の陵墓の所在地さえ伝えられなかった、のかもしれません。中世から近世の天皇家は、主に財政面で困窮したために、歴代天皇の古墳の所在地が分からなくなった、というのは、そう考えると説得力がない。
普通に考えれば、ご先祖様のお墓、庶民でもできうる限りはケアしたいと思うし、当時だってそう思われたでしょう。それができなかった、ということは、陵墓の死穢性を極端に忌み嫌った、というのが正解のような気がします。だから、長い年月があったとしても、いつしか、歴代天皇の陵は忘れ去られた。
伊勢の神宮も、その死穢こそが、親拝を避けられた理由だったのではないか? 伊勢の神宮の死穢の正体に関しては、別稿に譲ります。
時代が変わって、朱子学が優位となった時代、というより、明治維新は朱子学・水戸学が原動力でなされたわけですが、世の中が落ち着けばなおさら、突き詰めればご先祖様が何よりも大事、何はさておき、ご先祖様にお参りしなければ、となった。
“死穢”云々はそれこそご先祖様に対して大変な不敬、と、ここで考え方が180度転換したのではないでしょうか。熊野が「蘇り」を獲得したのと同じことが、明治の世に、また違う方向で起きた、ということにもなります。
近世末から近代にかけての、それこそ政治的な一大テーマが、古墳の比定になった、というのも、この角度から論じられなければなりませんし、「近代の比定だから、信じられん」と簡単に切り捨てるよりは、その当時の情熱こそ、問題にすべきだと思います。
ご先祖様を大事にするという感覚は今現在も一般的に受け継がれており、それを最も色濃く残し、伝統として定着している、というよりも、日々の祭祀、つまり日々の生活そのものとなっているのが皇室なのではないでしょうか。
-------------
かなり乱暴な見解かもしれませんが、このように見ていくと、日本の信仰という一本の筋道から、「なぜ歴代天皇は伊勢神宮の参拝をしなかった? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?」という疑問は解けそうですし、また、そこに日本人の信仰の深遠も垣間見れそうな気がします。
【伊勢の神宮】
・伊勢の神宮とは? - 「伊勢神宮、正式:神宮」正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢の神宮御朱印めぐり - 125社のうち御朱印が頂けるのは、7社 めぐるのに現実的可能性
・伊勢参宮 - 二見興玉神社→外宮→内宮と猿田彦神社の御朱印、参拝順路、アクセス、所要時間
・伊勢神宮125社めぐり - 整理すると73の社・境内、10の“めぐり”でコンプリート目指す
【関連記事】
・サルタヒコ殺人事件 - 伊勢神宮の創建に関連? 国譲りに匹敵する大和政権のトラウマか?
・猿田彦が多すぎる - 死地に伊勢神宮創建? 伊勢とサルタヒコの奇妙な、不可分な関係
・“神宮”怨霊説を検証する - 神宮にいる歴代天皇はみな怨霊! 鹿島神宮のフシギとは?
・伊勢の神宮の謎20 - “神宮が特別な訳?”今まで誰にも気づかれず解かれずの深秘の謎
・二所宗廟 - 伊勢神宮と石清水八幡宮、古代は宇佐神宮とも、謎多き伊勢と八幡神の二地
・京都三熊野 - 後白河法皇が整備した京の熊野神社三社、熊野三山同様に本宮・新宮・那智
・沢村賞の誕生秘話 - 日本球界先発投手の最大の栄誉は、沢村投手への贖罪という信仰の賜物
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コメント一覧 (15)
倭国と日本で、
倭国の太陽の道は、「卑弥呼の墓説もある箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺をはじめ、大和盆地を中心とする著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並び、東は三重県の伊勢斎宮跡、西は堺市の大鳥大社(さらに淡路島の遺跡や古社)まで延びる。」で、
じゃあ日本の太陽の道は、
2019年に行われた茨城国体で天皇陛下がご覧になったのは、日立市民運動公園体育館で行われた卓球です。また、日立市消防の纏には天皇家の御紋が描かれていて、都市伝説化している。
日本は「神の国」と言った国会銀もいましたが、長野県長野市松代にはパワースポットで有名だとかの皆神山(北緯36度33分14秒)があのます。この東西ラインを調べると常陸太田市馬場町の馬場八幡宮と白鷺神社(ヤマトタケル)瑞竜町が北緯36度33分14秒で同緯度である。そして、チカモリ遺跡「石川県金沢市新保本町に所在する縄文時代後期から晩期の集落遺跡である。1980年(昭和55年)の調査の際に掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)が発見された。」(Wikipedia)が同緯度である。
岐阜県下呂市金山町岩瀬にある岩屋岩陰遺跡が築造されたのは、 縄文時代の 草創期(約1万3000年前~約1万年前)か、早期(約1万年前~約6000年前ごろだそうで、面白いのが 「史跡指定の理由は、平安時代末期に、悪源太義平(源義平)が、 狒狒(ヒヒ)を追いつめてこの岩蔭で退治したという 口頭伝承によるものである。」で、
神武天皇と縄文時代から弥生時代へと屋岩陰遺跡での太陽観測とチカモリ遺跡のウッドサークル(太陽観測) これって、三種の神器の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が翡翠勾玉でなくメノウ勾玉であること、「やさかにのまがたま」が「にの≒二の」となり、八咫鏡(やたのかがみ)には、「二の」が無い訳でしょうかね?
・伊勢神宮は畿外にあるから。都から見て畿外とは文化、支配勢力においても違う地域とされていた。さらに都から伊勢までには鈴鹿関などの難所があり、途中で何日か宿泊する必要があるので、天皇が行幸するのは難しかった。より都に近かった寺社が重視される様になり、賀茂、石清水、平野への天皇行幸は実現している。一方で熊野参詣は天皇個人の仏教への帰依が大きかった。
・持統天皇や聖武天皇は伊勢に行幸したが、聖武天皇は勅使のみ。なお持統天皇が参拝したかは諸説ある。また平安時代のある時期から天皇が京都以外に外出する事が無くなったので、伊勢神宮に参拝する機会がなかった。
・伊勢神宮には勅使が派遣されているので天皇が参拝をする必要がなかった。さらに斎王が伊勢斎宮に居たので、天皇が伊勢神宮に参拝してしまうと斎王制度の根幹が揺らいでしまう。
・仏教信仰が盛んになり天皇や貴族も神社より寺院重視だった。神仏習合が進んでも伊勢神宮だけは仏教忌避が強かったので、当時の風潮から伊勢神宮へ参拝しなかった。
・天皇が伊勢神宮に参拝するのを反対する勢力が居たから。三輪氏が伊勢行幸に反対したのは農民の為とされているが、天皇の伊勢神宮への崇拝によって、古来から重視されてきた国津神を祀る神社の地位低下を恐れたから。
・伊勢神宮を創建した経緯には、国内で災いが起き、不安に思った天皇が皇居にあった天照大御神の御神体を畏れ多いのでを外に出したとある。つまり天皇が畏怖するぐらいの神様なので、伊勢神宮への参拝を避けていた。
・平安時代を過ぎると伊勢神宮は朝廷から離れて独立した勢力になっていた。各地に広がった神郡や御厨が国司と対立する問題も起きており、また遷宮や斎宮の負担などで朝廷と伊勢神宮の微妙な関係が影響していた。
・そもそも天皇が伊勢神宮に参拝する理由や動機があるという考えはいつから?
コメントありがとうございます。
御見解、その通りの部分もあるかと思います。
ただ、では、熊野は上皇になったら行けたのに、
上皇になってから伊勢に行った方がいなかった、
というのは不思議です。
また、おっしゃる通り、天皇はあまり神に
近づきすぎない、という原則があった、
というのも、本稿で述べている「死穢」
とも合致します。
ただ、宮中祭祀は、これは現在に至るまで、
もちろん皇室の存続、あるいは経済的な困窮
などの時期は除き、継続されてきたわけで、
一方で、天皇は明らかに「神との会話」を
確実に実行できる方でもあります。
御分霊という、これも世界的には珍しい慣習。
ここにも秘密があるのかもしれませんね。
非常に奥が深いです。
ご指摘から学ぶこと大でして、
感謝申し上げます。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。
親拝をされなかったのは伊勢神宮だけではなくて、他の神社に対しても基本的には同じであり(熊野詣は天皇の位を退いてのち。上皇になってから)、天皇は、各神社の祭祀に対して直接参拝はせず、奉幣使・宣命使を送る【奉幣祭祀】が原則です。
天皇と神との関係を考えるのに一番わかりやすいのが、同床共殿をやめたことでしょう。もともと天照大神は宮中にお祀りされていました。それが崇神天皇の時代になって、あまりにも神様の勢いが強すぎるから、宮中から離れたところに神社をつくろう、ということで伊勢神宮が成立したことを考えれば、『(とくに天皇は)神様には近づきすぎてはいけない。祭祀はそれに相応しい氏族に任せる』という畏れの感覚があった、というのが一番穏当なところではないでしょうか。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1064268532.html
八十島祭などですね。
本稿の趣旨として、本稿には記載しませんでしたが、
本稿の改定や拡張、あるいは別の角度での論考
の際には、住吉大社なども含めて考察してみたい
と思います。
今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。
アマテラスとスサノヲというのは確かにおっしゃる通りですね。
ただ、それが、天皇が親拝したか、しなかったのかを
説明するのは難しいのではないでしょうか?
熊野は確かにスサノヲを重要な要素とはしていますが、
イザナギ・イザナミ、あるいは別の要素もあります。
本稿では確かに簡素化はしていますが、
問題は、天皇が親拝したか、しなかったのかについて、
伊勢と熊野の違いという点でございまして、
御祭神の違いではこれを説明しにくい点があると愚考いたします。
アマテラスかスサノオかの違いこそ最大ではないのでしょうか?
その歴史的な成り立ちを深く知りたいですね。