徳島県南部・太平洋側の前方後方墳、実は邪馬台国時代の弥生墳丘墓だった? - 寺山3号墳
4世紀後半-5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かったと言います。まさに邪馬台国の時代。その時代に、徳島県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられるとします。徳島新聞が報じています

海陽町野江は、徳島県でも南部、きれいな曲線を描いて太平洋側に接する海岸線から見ると、そのちょうど中間点ほどに位置します。

寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、1979年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅。菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期-終末期の県内墳丘墓と比較したと言います。そうして、

・頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある
・墳丘の表面を積石で覆っている
・徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した
など七つの共通点を確認したと言います。

詳細については、県立埋蔵文化財総合センター(板野町)の開館20周年を記念して発行した研究紀要「真朱」第11号で、研究の成果をまとめた論文が発表されたようです。お問い合わせは県立埋蔵文化財総合センター、電話:088-672-4545まで。

古墳の時期が急激に遡る現象が昨今の傾向ではありますし、消滅古墳の、わずかに残された資料のみの比較研究というもろさがあるというのは正直なところです。安易に古墳を破壊するとこういうことになる、という、やはり一つの教訓ではあります(参考:高尾山古墳)。

それでも、神話から古代史にかけて、畿内と九州の行き来というのが、日本史の一つの軸になっている以上、その中間点に位置する中国・四国地方は、古来から何らかの形で栄えていた、ということは推測できることです。

特に四国は、邪馬台国四国説もないわけではなく、象徴的な一宮で四つ固められている、という地域柄からも、弥生期には相当の文化が展開されていたことは明らか。こうした地道な調査が、当時の実態回目に少しでも近づけると良いのですが。

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