六郷一円の総鎮守である八幡宮、八幡三神のうち二柱が去る伝承
[住所]東京都大田区東六郷3-10-18
[電話]03-3731-2889
六郷神社(ろくごうじんじゃ)は、東京都大田区東六郷にある神社。六郷一円の総鎮守で、御祭神は八幡大神(誉田別尊)。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 荏原郡「稗田神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によると、平安時代の天喜5年(1057年)、源頼義、源義家父子が、この地の大杉の梢高くに源氏の白旗をかかげて軍勢を募り、石清水八幡宮に武運長久を祈願したところ、軍の士気が大いに高まった。
前九年の役で勝利したため、凱旋後に石清水八幡宮の御分霊を勧請し、八幡宮を創建したとされる。江戸時代には「六郷八幡宮」と称していた。
文治5年(1189年)、源頼朝もまた、源義経および奥州藤原氏の征討(奥州合戦)に際し、祖先の吉例にならって白旗を立て、戦での勝利を祈願した。建久2年(1191年)に梶原景時に命じて社殿を造営した。
現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石はこの時に頼朝が奉献したもの、また神門前の太鼓橋は景時が寄進したものといわれている。
天正19年(1591年)、徳川家康は、神領として18石を寄進する朱印状を発給した。
慶長5年(1600年)、家康は神社近傍を流れる六郷川に架橋(六郷大橋)を命じ、その竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。
このように徳川家との縁が深いため、神紋として八幡宮の巴紋と三つ葉葵紋を用いている。
時期については定かではないが、六郷神社では元来、他の八幡社と同様に八幡三神(誉田別尊、神功皇后、比売大神)を祀っていた。
しかし、ある時の曳船祭(関東三大船祭りの一つと言われたが、現在は行われず)で、一座の神輿が東京湾の対岸である上総国に流されてしまい、もう一座の神輿はたいへんな荒神で、しばしば祟りを受けたので土中に埋めてしまったという。
享保4年(1719年)造営の本殿は三神を祀る建築様式になっていることから、上記の故事が起きたのはそれ以後ではないかとされている。
江戸時代には、東海道を隔てた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺であったが、明治維新によリ廃された。 明治5年(1872年)に郷社となる。
明治9年(1876年)に現社号に改称、昭和62年(1987年)には鎮座九百三十年祭が執行された。
例祭は毎年6月3日に行われ、6月第1金曜日の神社神輿遷御祭では、六郷14町会約40基の神輿が次々と神社に担ぎ込まれる。
翌土曜日には、数百年の伝統を持つ獅子舞の奉納が神楽殿で行われ、神獅子巡行、六郷ばやしの奉納がある。
翌日曜日、御神幸祭で神輿に乗せた御神体が六郷14町会を巡行しクライマックスを迎える。
毎年1月7日にこどもの開運・健康・出世を祈り、裃姿のこどもによって七草こども流鏑馬祭が執り行われる。都の無形民俗文化財。古くは弓射りとも称し、源頼朝の奉納に始まるという伝承がある。
文化財に天保3年(1831年)の斎藤月岑『東都歳事記』にも記述がある、社宝四神がある。境内に「六郷神社八幡塚」がある。
落馬止め天神として知られる大田区仲六郷の北野神社などを兼務している。
なお、式内社「稗田神社」の論社は他に、港区三田の御田八幡神社、大田区蒲田の薭田神社、南久が原の鵜ノ木八幡神社、久が原の八幡神社がある。
【ご利益】
厄除け、家内安全、身体健康、八方除、方位除、商売繁盛など(公式HP)

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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六郷神社(ろくごうじんじゃ)は、東京都大田区東六郷にある神社。六郷一円の総鎮守で、御祭神は八幡大神(誉田別尊)。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 荏原郡「稗田神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によると、平安時代の天喜5年(1057年)、源頼義、源義家父子が、この地の大杉の梢高くに源氏の白旗をかかげて軍勢を募り、石清水八幡宮に武運長久を祈願したところ、軍の士気が大いに高まった。
前九年の役で勝利したため、凱旋後に石清水八幡宮の御分霊を勧請し、八幡宮を創建したとされる。江戸時代には「六郷八幡宮」と称していた。
文治5年(1189年)、源頼朝もまた、源義経および奥州藤原氏の征討(奥州合戦)に際し、祖先の吉例にならって白旗を立て、戦での勝利を祈願した。建久2年(1191年)に梶原景時に命じて社殿を造営した。
現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石はこの時に頼朝が奉献したもの、また神門前の太鼓橋は景時が寄進したものといわれている。
天正19年(1591年)、徳川家康は、神領として18石を寄進する朱印状を発給した。
慶長5年(1600年)、家康は神社近傍を流れる六郷川に架橋(六郷大橋)を命じ、その竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。
このように徳川家との縁が深いため、神紋として八幡宮の巴紋と三つ葉葵紋を用いている。
時期については定かではないが、六郷神社では元来、他の八幡社と同様に八幡三神(誉田別尊、神功皇后、比売大神)を祀っていた。
しかし、ある時の曳船祭(関東三大船祭りの一つと言われたが、現在は行われず)で、一座の神輿が東京湾の対岸である上総国に流されてしまい、もう一座の神輿はたいへんな荒神で、しばしば祟りを受けたので土中に埋めてしまったという。
享保4年(1719年)造営の本殿は三神を祀る建築様式になっていることから、上記の故事が起きたのはそれ以後ではないかとされている。
江戸時代には、東海道を隔てた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺であったが、明治維新によリ廃された。 明治5年(1872年)に郷社となる。
明治9年(1876年)に現社号に改称、昭和62年(1987年)には鎮座九百三十年祭が執行された。
例祭は毎年6月3日に行われ、6月第1金曜日の神社神輿遷御祭では、六郷14町会約40基の神輿が次々と神社に担ぎ込まれる。
翌土曜日には、数百年の伝統を持つ獅子舞の奉納が神楽殿で行われ、神獅子巡行、六郷ばやしの奉納がある。
翌日曜日、御神幸祭で神輿に乗せた御神体が六郷14町会を巡行しクライマックスを迎える。
毎年1月7日にこどもの開運・健康・出世を祈り、裃姿のこどもによって七草こども流鏑馬祭が執り行われる。都の無形民俗文化財。古くは弓射りとも称し、源頼朝の奉納に始まるという伝承がある。
文化財に天保3年(1831年)の斎藤月岑『東都歳事記』にも記述がある、社宝四神がある。境内に「六郷神社八幡塚」がある。
落馬止め天神として知られる大田区仲六郷の北野神社などを兼務している。
なお、式内社「稗田神社」の論社は他に、港区三田の御田八幡神社、大田区蒲田の薭田神社、南久が原の鵜ノ木八幡神社、久が原の八幡神社がある。
【ご利益】
厄除け、家内安全、身体健康、八方除、方位除、商売繁盛など(公式HP)

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