平安遷都直前に崇道天皇の鎮魂のために創祀、八所御霊、応仁の乱発祥の地
[住所]京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
[電話]075-441-2260

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都府京都市上京区にある神社。正式には御霊神社。下御霊神社に対する通称。参拝すれば、「御霊社」などとある御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 愛宕郡「出雲高野神社」(小社)と、「出雲井於神社」(大社、月次・相嘗・新嘗)に比定される式内社の論社。近代社格では府社

京都十六社朱印めぐりの一社。

第50代桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであると、対外的な公表がやむを得ない状況になったと思われる貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。

この時に慰霊された御霊は、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)で、六所御霊と呼ばれている。

この御霊を改めて祀った神社を創建したのが当社の起源と考えられている。式内社であれば、貞観5年の御霊会より遅れること、最大で数十年とみられる。

ただし、社記によれば、桓武天皇の御宇、延暦13年(794年)5月、崇道天皇の神霊を現今の社地に祀ったのを創祀とするという。であれば、11月の平安遷都に先立っての祭祀ということになる。

下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称し、朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年(1384年)には正一位の神階を授けられた。

室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。

御祭神は、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上大皇后(光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(以上六柱の荒魂)、吉備大臣(吉備真備)。

火雷神、吉備大臣は下御霊神社ともども後から追加されたものであるが、それ以外の六柱は貞観5年の御霊会の六所御霊と微妙に相違しているのが特徴で、この点は下御霊神社との違いとなっている。

ただし、怨霊を御霊に変えるのが当社の役割であり、怨霊は“憤死”と思われていた頃、毎回の御霊会でポイントとなる怨霊が少しづつ変わっていったということはあり得ることだと思われる。

また、吉備大臣について、当社は吉備真備としているが、下御霊神社においてこれに相当する吉備聖霊について、下御霊神社では明確に吉備真備ではないと否定している。

火雷神については、両者とも菅原道真を否定し、両者で多少の異同がある六柱の荒魂であるとしている。両社の性格上、下記ということになる。

・吉備真備は怨霊だった→当社見解
・吉備真備は怨霊ではない→下御霊神社見解

とにかく、以上八柱を、下御霊神社とは内容が異なるものの、八所御霊と言う。また、相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。

例祭の御霊祭は明治までは旧暦8月18日に行われていたが、現在では新暦の5月18日に行われている。御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。

境内社に、神明神社、稲荷神社、厳島神社、花御所八幡宮、大舞神社、天満宮社、多度神社、貴船神社、粟島神社、白髪神社、長宮三十社がある。

このうち、天満宮社は上御霊天満宮とも呼ばれ、『都すゞめ案内者』(宝永5年(1708年)ごろ)に記載された「天神順参二十五ケ所」の「上御霊天神」に相当する。洛陽天満宮二十五社順拝の一社。

なお、式内社「出雲井於神社」の論社は他に、賀茂御祖神社の境内摂社である出雲井於神社井上社(御手洗社)、下御霊神社がある。

式内社「出雲高野神社」の論社は他に、賀茂御祖神社境外摂社の御蔭神社、左京区上高野の崇道神社境内社、上京区上御霊前町の猿田彦神社がある。

【ご利益】
厄除、こころしずめ、家内安全、家業繁栄、安産、学業成就、書道上達(京都神社庁
上御霊神社 京都府京都市上京区
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上御霊神社の御朱印