太宰府に次ぐ、北野より前の天満宮、野見宿禰の墓に止まる天神を祀る神社
[住所]大阪府高槻市天神町1-15-5
[電話]072-682-0025
上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)は、大阪府高槻市天神町にある神社。近代社格では郷社。一般には「うえのみやてんまんぐう」と呼ばれ、「北山の天神さん」とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
「太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」とされ、「上宮」の名も、創建が京都の北野天満宮より以前であることから冠せられたといわれる。菅公聖蹟二十五拝の第24番。
主祭神は菅原道真命。土師氏(菅原氏等の前身)の祖神である天穂日命の子である武日照命と、土師氏祖の野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を配祀する。
当社は「天神山」(「日神山」)と呼ばれる丘陵上に鎮座しており、社伝によれば、太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。
正暦4年(993年)5月、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝えた。
菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。
為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。
そのため創建は正暦4年とされるが、実際にはそれに先んじること50余年に創建されており、太宰府に次ぎ、北野に先んじる天満宮となったという。
もともと当地には『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 島上郡「野身神社」に相当する論社があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられている。
それが後になって道真を祀る天満宮が創建された。野身神社は、境内の野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘の上にある。他の論社に、市内野見町の野見神社がある。
『和名抄』には「摂津国島上郡 濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが分かる。
なお当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の天神山遺跡が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神車塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた。
永禄11年(1568年)、芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構えた。天正6年(1578年)、高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放ったという。
天正10年(1582年)の山崎の戦いに際しては、豊臣秀吉が当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。戦後、秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590年)、社地を寄進して社殿を修造した。
明治12年(1879年)5月、野身神社に改称し、郷社に列格した。第二次世界大戦後、もとの現社名に復した。
平成8年(1996年)11月、放火により、天正18年に豊臣秀吉が建立した本殿が焼失。平成14年(2002年)12月、日本初の竹製の本殿として再建された。
本殿脇にある石造灯篭は鎌倉時代の作。本殿前両側にある左の阿型(無角、体長71センチ)と右の吽型(有角、体長68センチ)は上宮型狛犬と呼ばれ、宝暦9年(1759年)11月の寄進。
毎年2月25日と26日に、例祭「初天神」、通称「天神まつり」がある。JR高槻駅北側から延びる参道には、特設ステージの催しや多数の屋台が出るなど、高槻市最大の祭典。
当社は現在「風わたる 花と緑と鳥の声 街はにぎやか 社はしずか」をコンセプトに掲げている。
【ご利益】
所願成就、学問・学業成就、身体壮健(公式HP)
【関連記事】
・菅公聖蹟二十五拝 - 菅原道真や、その大宰府への左遷途上の足跡にゆかりのある神社
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
[電話]072-682-0025
上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)は、大阪府高槻市天神町にある神社。近代社格では郷社。一般には「うえのみやてんまんぐう」と呼ばれ、「北山の天神さん」とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
「太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」とされ、「上宮」の名も、創建が京都の北野天満宮より以前であることから冠せられたといわれる。菅公聖蹟二十五拝の第24番。
主祭神は菅原道真命。土師氏(菅原氏等の前身)の祖神である天穂日命の子である武日照命と、土師氏祖の野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を配祀する。
当社は「天神山」(「日神山」)と呼ばれる丘陵上に鎮座しており、社伝によれば、太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。
正暦4年(993年)5月、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝えた。
菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。
為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。
そのため創建は正暦4年とされるが、実際にはそれに先んじること50余年に創建されており、太宰府に次ぎ、北野に先んじる天満宮となったという。
もともと当地には『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 島上郡「野身神社」に相当する論社があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられている。
それが後になって道真を祀る天満宮が創建された。野身神社は、境内の野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘の上にある。他の論社に、市内野見町の野見神社がある。
『和名抄』には「摂津国島上郡 濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが分かる。
なお当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の天神山遺跡が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神車塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた。
永禄11年(1568年)、芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構えた。天正6年(1578年)、高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放ったという。
天正10年(1582年)の山崎の戦いに際しては、豊臣秀吉が当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。戦後、秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590年)、社地を寄進して社殿を修造した。
明治12年(1879年)5月、野身神社に改称し、郷社に列格した。第二次世界大戦後、もとの現社名に復した。
平成8年(1996年)11月、放火により、天正18年に豊臣秀吉が建立した本殿が焼失。平成14年(2002年)12月、日本初の竹製の本殿として再建された。
本殿脇にある石造灯篭は鎌倉時代の作。本殿前両側にある左の阿型(無角、体長71センチ)と右の吽型(有角、体長68センチ)は上宮型狛犬と呼ばれ、宝暦9年(1759年)11月の寄進。
毎年2月25日と26日に、例祭「初天神」、通称「天神まつり」がある。JR高槻駅北側から延びる参道には、特設ステージの催しや多数の屋台が出るなど、高槻市最大の祭典。
当社は現在「風わたる 花と緑と鳥の声 街はにぎやか 社はしずか」をコンセプトに掲げている。
【ご利益】
所願成就、学問・学業成就、身体壮健(公式HP)
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