道真が左遷途次に残した自身の木像と自画像を没後50年ほどで祀り創建
佐太天神宮(大阪府守口市佐太中町7-16-25)
[住所]大阪府守口市佐太中町7-16-25
[電話]06-6901-7500

佐太天神宮(さたてんじんぐう)は、大阪府守口市佐太中町にある神社。御祭神は菅原道真公で、菅公聖蹟二十五拝の第9番。参拝すれば、御朱印を頂ける。

昌泰4年(901年)に道真が筑紫の大宰府に遷る途中、道真の領地であった当地に暫時滞在し、その出立に際して自身の木像と自画像を残した。

この時、楊枝を土に挿し「わが身の無実の罪たる証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓ったところ、程なく発芽して、見事な松の木に成長したので、その名を「アカ松」(明しの松)と称えられた。

延喜3年(903年)、道真が大宰府で薨去。それから50年後の村上天皇の天暦年間(947年-957年)に、里人がその徳を慕って、残した木像を祀ったのが創建。

河内国茨田郡大庭荘の惣社となり、天正8年(1580年)には小出播磨守秀政が、続いて元和元年(1615年)の大坂夏の陣の後、三代目吉英が、社殿を再興している。

現在の社殿は江戸時代の老中を務めた淀城主永井信濃守尚政が、当宮の社宝である『天神緑起と勧化帳』(文安3年(1446年))を見て大いに崇敬し、再興したもの。

まず、寛永17年(1640年)に本殿が再興され、続いて慶安元年(1648年)に拝殿、神門、鳥居などが造営された。いずれも現存し、特に本殿は江戸初期の建築様式を今に伝える貴重な建造物で、府の有形文化財に指定されている。

明暦2年(1656年)、大徳寺の天佑の手記には「京より西し、或は西国より上洛する者、老若男女貴賎を問わず、皆此の宮に詣でて、その輪奐の美に感ぜざる者無し」とある。

当宮神殿の額「佐多天満大自在天神」は曼珠印良恕親王(寛永20年(1643)薨去)の筆によるもので、一の鳥居の額「佐太天神宮」は二品竹内御門主良尚親王(元禄6年(1693年)薨去)の筆によるもの。

永井尚政・尚庸父子などの寄進による狩野探幽の十一面観音画像をはじめ、後水尾上皇など当時の宮廷をとりまく皇族・公卿・画家・学者・高僧等の江戸初期の美術作品が多く奉納されている。

大和守安定の作刀になる刀とその拵こしらえである金梨子地塗糸太刀拵は、江戸初期・寛文10年(1670年)の銘があり、安定の作品の中でも大作に属する貴重なものとして府の有形文化財に指定されている。

以来、300年強の間に50年ごとに神忌大祭を斎行し、例年正月、5月、9月の3回、連歌を奉納している。

江戸中期から今日まで文楽や歌舞伎で演じられた『菅原伝授手習鑑』のうち「佐太村の段」は、当宮が物語の舞台であることはよく知られている。

明治元年(1868年)3月22日、明治天皇の大阪行幸の途次、当地を訪れたという。

境内には戎社(戎大神、告文天満宮、火乃迦具土神)、白太夫社(白太夫之命。渡会春彦で、伊勢の神宮(伊勢神宮)の宮司であり道真の守り役を務めた)、稲荷社(宇迦之御魂大神)、愛宕社(火産霊神)がある。

夏祭が7月24・25日、秋祭が10月19・20日。

【ご利益】
所願成就、学問・学業成就
佐太天神宮 - 道真が左遷途次に残した自身の木像と自画像を没後50年ほどで祀り創建
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