将門ゆかりの勝守が有名な勝運と武勇長久の神、日本武道館の氏神、中坂天神
[住所]東京都千代田区九段北1-14-21
[電話]03-3261-3365

築土神社(つくどじんじゃ)は、東京都千代田区九段にある神社。近代社格では村社。通称は築土明神。御祭神・平将門にちなみ、武勇長久の神社として親しまれ、日本武道館の氏神でもある。

毎年正月に授与される勝守(かちまもり)は有名。参拝すれば、御朱印を頂ける。

天慶3年(940年)6月、津久戸村(現 千代田区大手町付近)に平将門の首を祀り(現 平将門の首塚)、「津久戸明神」として創建された。

江戸時代の文献によれば、平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものも、かつては当社内に安置されていたといわれ、多くの将門所縁の社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。

室町時代、天文21年(1552年)11月に太田道灌により田安郷(現 千代田区九段坂上)へ移転させられて以降は「田安明神」とも呼ばれ、日枝神社神田神社とともに江戸三社の一つにも数えられることもあった。

元和2年(1616年)に江戸城外堀の拡張により筑土八幡神社隣地(現 新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。

『要用雑記』(寛永11年(1634年)4月17日)に、「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」とある。春日局ゆかり。

明治7年(1874年)、逆賊と評価されていた将門を相殿に引き下げるよう明治政府の指示もあり、天津彦火邇々杵尊を主祭神として現社号に改称する。

第二次世界大戦の戦災(1945年)で焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。

300年以上の間、筑土八幡神社と並んで鎮座していたが、戦後になって現在地へ移転した。

9月15日の例大祭に至る1週間の行事を「築土祭」と呼び、節目の年には神輿渡御などが行われる。平成18年(2006年)には、安政6年(1859年)の神田明神以来、実に147年ぶりに神輿渡御行列の江戸城入りを果たしている。

拝殿の装飾や絵馬などには、巴紋のほか、平将門にちなんだ繋ぎ馬(つなぎうま)の紋が使用されているが、これは神社境内にある天水桶(文政元年(1818年))の彫刻を模したもので、現在は当社の登録商標となっている。

現在は相殿神となっている菅原道真は、平成6年(1994年)5月に合祀されたものだが、もともとは境内社である木津川天満宮の御祭神。中坂天神と呼ばれる、江戸二十五天神の一社であろう。

「飯田町の世継の天神」「飯田町中坂世継稲荷境内」などと称され、現在でも当社の兼務社の中に世継稲荷がある。

江戸期から明治期にかけての書籍である下記に記載され、江戸において、極めて有力な天神の一社だったと思われる。

『武陽菅原詣』収録の天神
東都二十五天神(『卯花園漫録』)
府内天神(『江戸拾葉』)
菅祠二十五社(『霊神仏之記』)
御内府及び御内府近辺二十五天神(『天満宮御伝記略』)
東京天満宮二十五社(『菅原大神千年大祭図会』)

なお、当社の歴史から考えて、中坂天神と呼ばれていた頃は、現社地のように中坂に近い所にはなかったことが考えられ(新宿区の筑土八幡神社付近)、こうした点は不詳。

加門七海『平将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)において、江戸における平将門ゆかりの神社が、一種の魔方陣として配置されているとの指摘があるが、当社は、その中で北斗七星の柄杓の柄の一つアリオスを構成しているとされる。

その場合、江戸期の筑土八幡神社近くへの移転は、この魔方陣完成のための措置と見る。

当社の境外社に桐生稲荷神社白菊稲荷神社などがある。

【ご利益】
武運長久、勝運向上、工事安全、子孫繁栄、学業成就(公式HP
築土神社 - 将門ゆかりの勝守が有名な勝運と武勇長久の神、日本武道館の氏神、中坂天神
【関連記事】
江戸二十五天神 - よく言われるのに資料のない不思議な菅公巡拝、東京の代表的な天満宮
江戸の平将門魔方陣 - 将門封じ? 東京ど真ん中に大規模な北斗七星と調伏の構えが現存
東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
築土神社の御朱印