子安天満宮で知られる巣鴨天神山、戦国期に保坂氏が当地に勧請
[住所]東京都豊島区北大塚1-7-3
[電話]-
菅原神社(すがわらじんじゃ)は、東京都豊島区北大塚にある神社。参拝すれば、「菅原神社」と大書された御朱印を頂ける。
巣鴨天神山、子安天満宮の名で知られている。主祭神は菅原道真。東京の天神さま32社の一社。
天文年間(1532年-1555年)に三河あるいは京からやって来た仁平三河守盛義が屋敷の東西南北の小高い場所にそれぞれ神社を勧請したものの一つと伝わる。
北は氷川神社(北大塚1-38-8周辺)、南は熊野神社(南大塚2-39-5周辺、現在は天祖神社に移る)、西は稲荷神社(北大塚1-15-5または同2-33周辺)、そして東が当社となる。
一方、元亀年間(1570年-1573年)、盛義が神託により、この地に子安天満宮を勧請したのが創祀とも。盛義の没年は元亀2年(1572年)と伝わる。
その子徳右衛門は、姓を保坂と改め、村内新田開墾の功により代々この地の名主役を務めた。
天文と元亀で時代が若干異なり、徳右衛門は盛義以降の保坂氏の共通名となることから、保坂氏による勧請と保護は間違いないものの、時代に多少の齟齬がみられる。
江戸期は巣鴨真性寺が別当となり、そのまま明治維新に至る。後、隣接の稲荷神社(保食神)を合祀した。
巣鴨天神山として、いわゆる江戸二十五天神の一社であろう。
江戸期から明治期にかけての書籍である下記に記載されており、記載量だけで言えば、湯島天満宮、亀戸天神社、平河天満宮に次いで多いグループの一角で、牛天神北野神社などと比肩し、江戸において極めて有力な天神だったと言える。
・東都御府内天満宮諸社(『菅丞相往来』)
・『武陽菅原詣』収録の天神
・東都二十五天神(『卯花園漫録』)
・府内天神(『江戸拾葉』)
・菅祠二十五社(『霊神仏之記』)
・御内府及び御内府近辺二十五天神(『天満宮御伝記略』)
・東京天満宮二十五社(『菅原大神千年大祭図会』)
【ご利益】
子育て、学問・学業成就、受験・試験合格

【関連記事】
・東京の天神さま32社 - 東京梅風会の会員、リアルタイムの天神信仰の拠点、有力天満宮
・江戸二十五天神 - よく言われるのに資料のない不思議な菅公巡拝、東京の代表的な天満宮
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
[電話]-
菅原神社(すがわらじんじゃ)は、東京都豊島区北大塚にある神社。参拝すれば、「菅原神社」と大書された御朱印を頂ける。
巣鴨天神山、子安天満宮の名で知られている。主祭神は菅原道真。東京の天神さま32社の一社。
天文年間(1532年-1555年)に三河あるいは京からやって来た仁平三河守盛義が屋敷の東西南北の小高い場所にそれぞれ神社を勧請したものの一つと伝わる。
北は氷川神社(北大塚1-38-8周辺)、南は熊野神社(南大塚2-39-5周辺、現在は天祖神社に移る)、西は稲荷神社(北大塚1-15-5または同2-33周辺)、そして東が当社となる。
一方、元亀年間(1570年-1573年)、盛義が神託により、この地に子安天満宮を勧請したのが創祀とも。盛義の没年は元亀2年(1572年)と伝わる。
その子徳右衛門は、姓を保坂と改め、村内新田開墾の功により代々この地の名主役を務めた。
天文と元亀で時代が若干異なり、徳右衛門は盛義以降の保坂氏の共通名となることから、保坂氏による勧請と保護は間違いないものの、時代に多少の齟齬がみられる。
江戸期は巣鴨真性寺が別当となり、そのまま明治維新に至る。後、隣接の稲荷神社(保食神)を合祀した。
巣鴨天神山として、いわゆる江戸二十五天神の一社であろう。
江戸期から明治期にかけての書籍である下記に記載されており、記載量だけで言えば、湯島天満宮、亀戸天神社、平河天満宮に次いで多いグループの一角で、牛天神北野神社などと比肩し、江戸において極めて有力な天神だったと言える。
・東都御府内天満宮諸社(『菅丞相往来』)
・『武陽菅原詣』収録の天神
・東都二十五天神(『卯花園漫録』)
・府内天神(『江戸拾葉』)
・菅祠二十五社(『霊神仏之記』)
・御内府及び御内府近辺二十五天神(『天満宮御伝記略』)
・東京天満宮二十五社(『菅原大神千年大祭図会』)
【ご利益】
子育て、学問・学業成就、受験・試験合格

【関連記事】
・東京の天神さま32社 - 東京梅風会の会員、リアルタイムの天神信仰の拠点、有力天満宮
・江戸二十五天神 - よく言われるのに資料のない不思議な菅公巡拝、東京の代表的な天満宮
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧

コメント