【日刊】日本の城
・名称:鹿児島城(かごしまじょう)
・別称:鶴丸城
・史跡:県の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所: 鹿児島県鹿児島市城山町
・電話:099-224-1111
・日本100名城:第97番
- スタンプ:鹿児島県歴史資料センター黎明館内総合案内所
鹿児島城(かごしまじょう)は、薩摩国(今の鹿児島県鹿児島市)にあった、江戸期には薩摩藩の藩庁などにも機能した日本の城である。
築城年は慶長7年(1602年)であり、廃城年は明治5年(1872年)である。天守はなし。主な築城者は島津家久で、主な改修者は島津吉貴である。
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。
当地では一般的に古くから別名「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。
城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された。その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。
麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。
これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。
そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。
明治6年(1873年)頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
美しい日本の歴史的風土100選に「鶴丸城址、城山公園、仙厳園」として選ばれている。
【関連サイト】
・鹿児島・鶴丸城 御楼門-ごろうもん
・名称:鹿児島城(かごしまじょう)
・別称:鶴丸城
・史跡:県の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所: 鹿児島県鹿児島市城山町
・電話:099-224-1111
・日本100名城:第97番
- スタンプ:鹿児島県歴史資料センター黎明館内総合案内所
鹿児島城(かごしまじょう)は、薩摩国(今の鹿児島県鹿児島市)にあった、江戸期には薩摩藩の藩庁などにも機能した日本の城である。
築城年は慶長7年(1602年)であり、廃城年は明治5年(1872年)である。天守はなし。主な築城者は島津家久で、主な改修者は島津吉貴である。
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。
当地では一般的に古くから別名「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。
城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された。その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。
麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。
これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。
そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。
明治6年(1873年)頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
美しい日本の歴史的風土100選に「鶴丸城址、城山公園、仙厳園」として選ばれている。

【関連サイト】
・鹿児島・鶴丸城 御楼門-ごろうもん
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