【日刊】日本の城
名称:飫肥城(おびじょう)
別称:-

史跡:市の史跡
国宝:-
重文:-

住所:宮崎県日南市飫肥10丁目1-2
電話:0987-25-4533
日本100名城:第96番
  - スタンプ:飫肥城歴史資料館

飫肥城(おびじょう)は、日向国(今の宮崎県日南市)にあった、江戸期には飫肥藩の藩庁などにも機能した日本の城である。天守はなし。

宇佐神宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。

時代は下って、室町時代末期の長禄2年(1458年)、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。

戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。文明16年(1484年)に日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代によって急場を凌いだ。

だが、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。永禄10年(1567年)、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。

しかし、元亀3年(1572年)に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配するところとなった。

伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加し活躍した戦功により再び飫肥の地を取り返し、大名として復活を成し遂げた。

以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。

江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の戦いで東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。

祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東氏・島津氏という二つの勢力が一貫して一つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例。

近年では昭和53年(1978年)に大手門が復元されたほか、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられている。NHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地になったことでも有名である。

美しい日本の歴史的風土100選に「伊東家城下町飫肥と港町油津」として選ばれている。城下町として、泰平踊が知られ、10月第3土・日曜日には飫肥城下まつりが行われる。祭りでは、江戸時代さながら、武者行列や泰平踊、ミスお姫様などのパレードが行われる。
飫肥城 日向国(宮崎県日南市) - サムネイル写真
【関連サイト】
飫肥城下町保存会 | 宮崎県日南市の飫肥(おび)城下町