【日刊】日本の城
・名称:岡城(おかじょう)
・別称:臥牛城、豊後竹田城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:大分県竹田市竹田2761
・電話:0974-63-4807
・日本100名城:第95番
- スタンプ:観覧料徴収所(総役所跡)
岡城(おかじょう)は、豊後国(今の大分県竹田市)にあった日本の城である。築城年は文治元年(1185年)で、廃城年は明治4年(1871年)。天守は、1596年に構造不明のものが築造されたが、焼失後の1774年再建、複合連結型層塔式で非現存である。主な築城者は緒方惟義で、主な改修者は志賀貞朝、中川秀成である。
岡城が築かれた天神山は、標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。
その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。
一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。
天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年(1587年)正月3日付けの褒状を受けている。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)、文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去る。翌文禄3年(1594年)、播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。
この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。
本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、三口とした。
また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。二代久盛の代には清水門が整備され、三代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き、御殿を造営している。
岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に八代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみ。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守が復元された。
昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定された。
「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられている。
日本さくら名所100選に「岡城公園」として、日本の歴史公園100選に「岡城跡」として選ばれている。毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され、大名行列が再現されている。城址の保存状態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。
【関連サイト】
・竹田市 岡城跡
・名称:岡城(おかじょう)
・別称:臥牛城、豊後竹田城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:大分県竹田市竹田2761
・電話:0974-63-4807
・日本100名城:第95番
- スタンプ:観覧料徴収所(総役所跡)
岡城(おかじょう)は、豊後国(今の大分県竹田市)にあった日本の城である。築城年は文治元年(1185年)で、廃城年は明治4年(1871年)。天守は、1596年に構造不明のものが築造されたが、焼失後の1774年再建、複合連結型層塔式で非現存である。主な築城者は緒方惟義で、主な改修者は志賀貞朝、中川秀成である。
岡城が築かれた天神山は、標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。
その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。
一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。
天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年(1587年)正月3日付けの褒状を受けている。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)、文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去る。翌文禄3年(1594年)、播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。
この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。
本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、三口とした。
また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。二代久盛の代には清水門が整備され、三代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き、御殿を造営している。
岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に八代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみ。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守が復元された。
昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定された。
「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられている。
日本さくら名所100選に「岡城公園」として、日本の歴史公園100選に「岡城跡」として選ばれている。毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され、大名行列が再現されている。城址の保存状態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。
【関連サイト】
・竹田市 岡城跡
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