志和の「おいなりさん」、前九年の役の際の勧請で創建1000年の古社
[住所]岩手県紫波郡紫波町升沢前平17-1
[電話]019-673-7608

志和稲荷神社(しわいなりじんじゃ)は、岩手県紫波郡紫波町にある神社。近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社日本五大稲荷とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。赤色ベースの鳥居と狐をあしらった、オリジナルの御朱印帳がある。

御祭神は宇迦之御魂大神(稲荷大神)、猿田彦大神、大宮能売大神。当社では大宮能売大神は天宇受売命の別名としている。

志和の「おいなりさん」と仰がれ、車のお祓い・厄祓(厄年祓)・合格祈願には特に霊験あらたかな神として、地元周辺はもちろん、全国から参拝客があるという。

天喜5年(1057年)、源頼義が安倍頼時、貞任父子追討(前九年の役)のために陣ヶ岡に布陣した際に戦勝を祈願して京の伏見稲荷大社から分霊を勧請して創祀したと伝える。創建1000年近くとなる。

その後藤原氏の一族で斯波郡を領した樋爪俊衡などが再建したとも、文治5年(1189年)の奥州合戦に際して源頼朝が再建したともいう。

また、大同年間(806年-810年)の創建とする伝承もあり、更に建武2年(1335年)に奥州総大将として斯波郡に下向した斯波家長が伏見稲荷を勧請したともいう。

室町時代を通じて斯波郡郡主である斯波氏から崇敬され、天正16年(1588年)には斯波詮直による社殿の造営も行われたが、同年詮直が南部信直に逐われると、南部氏が代わって崇敬するようになった。

なお、信直に攻められた詮直は当社の別当寺院であった成就院に一時身を潜め、その後山王海(滝名川上流の小盆地、現紫波町土館の山間部)へ逃亡したという。

南部氏による崇敬、保護は、慶長4年(1599年)の信直による田畑24石余の寄進が初見で、その後同17年に平沢村(現紫波町平沢)から20石、翌々19年に10石余の地が加増された。

承応元年(1652年)には同氏分家の八戸直栄による社領7石の寄進があった他、その後の盛岡藩からの3度の寄進もあり、嘉永2年(1849年)時点での藩による寄進高は都合70石に及んだ。

江戸時代には十一面観音を本地仏としていた。また祭礼などには藩主(南部氏当主)の直参、あるいは代参が頻繁に行われ、南部一族の祈願所的性格を有していた。

天保5年(1834年)に藩主利済は手許金で日光街道に擬えた盛岡から当社へ至る五里程(およそ15キロ)の参道「志和稲荷街道」を造成した。

明治初年に村社に列格し、大正7年(1918年)6月に県社に昇格。戦後は神社本庁に参加し、昭和32年(1957年)6月にその別表神社に指定された。

境内には樹齢千年を超える杉の木があり、「稲荷山大杉」と呼ばれ神木とされている。長寿を願って杉の根本から白狐の毛を探すという風習がある。

例大祭は5月5日。旧暦2月初午の日(初午祭)、同2月二午の日(中午祭)、同2月三午の日(末午祭)が春の御縁日、旧暦9月9日(初九日祭)、同9月19日(中九日祭)、同9月29日(末九日祭)が秋の御縁日になっている。

【ご利益】
家内安全・交通安全・商売繁盛・五穀豊穰・大漁満足・学業成就・厄年祓など(公式HP
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志和稲荷神社の御朱印