読み:ぜんこうじほんどう
員数:1棟
種別:建造物の部 近世以前/寺院
時代:江戸中期 宝永4年(1707年)
重文:1908.04.23(明治41.04.23)
国宝:1953.03.31(昭和28.03.31)
都道府県:長野県
所在地:長野市大字長野元善町
所有者:善光寺
管理者:-

善光寺の本堂は元禄13年(1700年)の炎上の後の再建であって、宝永2年(1705年)着工、同4年(1707年)竣工した。設計は幕府の棟梁甲良宗賀であり、棟梁は弟子木村万兵衛であった。

極めて縦長の建物である。すなわち、桁行(側面)が十四間にもおよぶのに梁間(正面)は五間である。前面五間の向拝からのぼると、最前列の一間は開放となっており、それから奥へ九間分が広い外陣となる。

そのうち第四の柱間が広くとられ、ここへは側面の向拝からのぼれるようになっている。それより奥は、外陣ながら畳敷となっている。

外陣最奥には五間の扉構えがあって、それより三間が畳敷の中陣となる。中陣の奥は三間の内陣で、本尊および創立者の善光夫妻と長子善佐をまつる。

なお内陣下には地下室ができており、いわゆる戒壇めぐりができるようになっている。

このような縦長の平面は、日本建築としては異色のものといえる。元来仏堂建築は、奥行が通常二間、多くても三間の母屋の周囲に庇をめぐらす平面となるのが原則で、桁行方向は三十三間堂のように長くすることができても、梁間方向には限度があった。

その欠点を克服するために、二棟を前後に並べた双堂または礼堂造と呼ばれる形式ができ、それがほぼ正方形平面の中世密教本堂につながるのである。

こういった仏堂平面の変遷からみると、この本堂は特殊な平面を持つといわざるをえない。近世になって仏教が庶民化したために広い外陣を必要としたので、この平面ができたとする考えもあるが、善光寺如来伝絵をみると、中世にすでに相当縦長の平面になっている。それ故、この本堂はかなり古くから特別な平面であったと考えられる。

柱はすべて丸柱で、入側柱が高く、三手先組物で軒を支え、T字形の棟をもつ入母屋造屋根をかける。このT字形が鐘や鉦を打ち鳴らす撞木に似ているので撞木造という。

これに対し側柱は低く、出組をおいて腰屋根をのせる。つまり裳階である。正面向拝部には軒唐破風を設けている。

柱間装置は正面中央五間、背面中央三間および側面二ヶ所ずつに桟唐戸を開き、また正面両脇間と両側面内陣部入口に舞良戸を引違いとするほかは、ほとんど連子窓である。

内部は、周囲一間通りを化粧屋根とするほか、入側柱より内側は柱の途中に挿肘木を入れて組物を設け、天井を張っている。天井は、主要部が内陣、中陣とも折上格天井、外陣は格天井である。

この本堂は、寺の特殊な歴史を反映しているとともに、江戸時代の民間信仰にもこたえられるような設計になっている。元禄時代に多く造営された大規模建築の一つとして、時代の風潮をよく示している。
国宝「善光寺本堂」(長野県長野市)