産経新聞2015年9月11日「『八紘一宇』につきまとう悪評…」では、初代神武天皇の「日向から大和までの道のりを古事記は『東征』と書くが、『東遷』と言い換える動きも多い。『征』の文字が軍事を連想させるからである」としています。
本当に、『古事記』では「東征」と記しているのでしょうか?
答えは「NO」です。
『古事記』において、初代神武天皇の項では、「東行」という言葉を使っています。そもそも『古事記』には多分、「東征」という言葉は一度も出てきません(参考)。
「神武東征」は『古事記』以外の由来、だということは確実です。言葉は、文章は、大事に使いたいところです。
では、後段。「『東遷』と言い換える動きも多い」のでしょうか? それが本当かどうかは分かりませんが、実は当サイトでも「東遷」をできる限り使っています。
当サイトはできるだけ『古事記』に立脚しているので、『古事記』で「東行」とだけしている以上、「東征」でも「東遷」でも、どちらを使ってもよい気もします。
しかし、当サイトで「東遷」を使っているのは、そんなものすごく大それた主義主張があるわけではないのですが、
・「東征」は、東方への(また戻ってくるかもしれない根拠地からの)遠征
・「東遷」は、東方への(遠征も含むかもしれないが)遷移・移動
というようなニュアンスが、言葉上大きいのではないか、と考えてのことです。
では、神武天皇の「東行」はどちらか、と言えば、明らかに後者でしょう。「東方への遠征」であれば、もしかすると、もう一度「高千穗宮」に戻って来る、ということをも示唆します。
『古事記』の流れからも、神武天皇一行が「高千穗宮」に戻って来る、という選択肢はあり得なかった。なぜなのか、は分かりません。「軍事を連想させる」云々に限らず、この場合は、「東遷」の方が字義的にも妥当なのではないでしょうか。
誤解を生まないためにも、現代の日本人でも理解できる『古事記』の言葉である「東行」を使用するのが、間違いないところなのかもしれませんが。
しかし、ここは当サイトの見解ではあるのですが、『古事記』最大の謎とも絡んでくるところです。特に引用ではないのですが、強調する意味を込めて。
しかし、なぜ、神武天皇の曾祖父たる天孫ニニギの降臨地が、出雲でも、大和でもないのか。それらとはとんでもなく離れている高千穂(九州)なのか。
一部ではよく言われていることではあるのですが、この謎、面と向かって答えた人はあまりいないのではないでしょうか。
と、えらそうなことを言っても、当サイトの見解も固まっているわけではありません。ただ、なぜ「天子」ではなく、「天孫」が降臨したのか、という点と、天孫降臨の道案内をしたはずのサルタヒコが、現在九州ではあまり祀られていない(皆無ではありません)、という点を考えて。
“天孫族”は、実は一度は大和に降臨を果たそうとしたのではないか。国譲りを受けて、大義名分もあるし。そこが国の真ん中、という意識もあったはず。しかし、現地勢力が強すぎて、敗走を余儀なくされる。海を越えて四国に上陸、さらにまた海を越えて遠く九州へ逃れた、という可能性があるのではないでしょうか。
さらに言えば、最初はやはり出雲の近くに降臨しようとしたのではないか。鳥取県西伯郡大山町上萬の壹宮神社には興味深い伝承があります。ここから大和を目指し、上述に続きます。また、壹宮神社の伝承は、天子降臨も示唆しています。
近畿から九州への移動は、事情も背景も、ルートも違いますが、後年の足利尊氏を思わせます。
ともかく、『古事記』にあるサルタヒコとは、天孫族の大和から九州への敗走を手助けした一族だったのかもしれない。その中間、というよりはだいぶ大和寄りではありますが、阿波国(徳島県)にはサルタヒコを祀る一宮・大麻比古神社があります。隣の讃岐国一宮・田村神社でもサルタヒコは祀られています。
また、それだけの敗走であれば、一族の長たる「天子(アメノオシホミミ)」がその過程で、仮に戦死したとしても、全く不可解ではありません。
当初は「天子降臨」だったけど、神話になった時に、「天孫降臨」になった、のかもしれない。
だから、出雲の国譲り後、天孫たちは九州へ降臨した、という、不可解な神話になった、のかもしれない。大和に天孫降臨の伝承が根強く残っているのも、全くのでたらめではない。
なぜ「天子」ではなく、「天孫」なのか、というのは、
1.朝鮮半島に類似の神話があり、その影響。
2.神話形成時の天皇家が、祖母から孫への継承だったための、その影響。
などの解釈もありますが、それだけでは、なぜ降臨地が九州なのか、の説明にはなりません。四国から逃れてきたのであれば、神話上の降臨地が、一般的に南九州である、と言われていることにも符合します。
さて、天孫族。九州で再起を図る。それは結果として三世代もの時間を費やすことになり、ニニギから見れば曾孫の代までかかることになります。
その過程で、四国(か、勢力下だった九州のどこか)で出会ったオオヤマツミ一族と盟約を結ぶ(天孫ニニギとサクヤの結婚)などで力を蓄えた、のではないでしょうか。しかし、何らかの不義があったのかもしれません(イワナガ伝承)。
だから、後述しますが、神武天皇の「東遷」も苦労することになる。念のため、伊予国(愛媛県)には、まさに瀬戸内海、神武東遷では避けては通れない大三島に、オオヤマツミを祀る一宮・大山祇神社があります。
神武天皇の「東遷」は、先祖が一度敗走していたためのリベンジだったのではないでしょうか? それは、決して九州に戻ってくることのないという、ある意味では悲壮な決意だったのかもしれません。だからこその、東方への遷移・移動なのではないか、と考える次第ではあります。
そもそも『古事記』において、登場のほぼ初っ端から、神武天皇は理由を述べることもなく、いきなり「東に行こう(東行)」と言い放ちます。考えてみればイミフ。
まあ、キレイごとを言っても、神武天皇の「東行」は明らかに軍事行動。それは、「東征」としても、「東遷」としても、変わりません。
上述の産経新聞は「古事記では16年に及ぶ神武天皇の旅は、大半が平和裏に進み、西日本各地は争うことなく帰順した」と言います。
いや、ここに矛盾があるでしょう。
確かに『古事記』には戦闘の様子こそ描かれていませんが、九州から、大和に進軍(何もなければなおさら、単純なお引越しですが)するとして、どのようにしたら16年もかかるのか。
まず間違いなく、西日本(九州から瀬戸内海にかけて)でも持久戦に持ち込まれるなどを含む、多くの戦いがあったはず。先述の、伊予の雄・オオヤマツミ一族の助力が、何らかの因縁から得られなかった、のかもしれません。
神武東遷よりははるかに前の話だったかもしれませんが、天孫降臨(天子降臨)の協力者だった、サルタヒコの不可解な死、というものとの関連も気になります。
『古事記』に、イワナガの伝承、天皇家の寿命を縮める力が、オオヤマツミにあった、ということをも示している、ということにはあまり触れられません。
「北の出雲、南の大山祇」です。国譲りをしたオオクニヌシと関連が深く、その意味ではオオクニヌシの国の明け渡しと、それを受けた天孫族に少なからず好意的だったのかもしれません。が、天孫族に不義があった。から、全面的な協力にはならなくなった。
ともかく、『古事記』では、その移動期間の長さを示すことで、暗に神武東遷の苦難を示しているのでしょう。
「軍事を連想させる」も何も、初めから、神武東遷は一大軍事事業。しかも、極めて困難な。そこも決してごまかさず、当サイトとしては、「東遷」が妥当なのかな、と思っている次第です。
【関連記事】
・サルタヒコ殺人事件 - 伊勢神宮の創建に関連? 国譲りに匹敵する大和政権のトラウマか?
・マークエステルさんが阿波・大麻比古神社に絵画奉納、やっぱりサルタヒコを考えます
本当に、『古事記』では「東征」と記しているのでしょうか?
答えは「NO」です。
『古事記』において、初代神武天皇の項では、「東行」という言葉を使っています。そもそも『古事記』には多分、「東征」という言葉は一度も出てきません(参考)。
「神武東征」は『古事記』以外の由来、だということは確実です。言葉は、文章は、大事に使いたいところです。
では、後段。「『東遷』と言い換える動きも多い」のでしょうか? それが本当かどうかは分かりませんが、実は当サイトでも「東遷」をできる限り使っています。
当サイトはできるだけ『古事記』に立脚しているので、『古事記』で「東行」とだけしている以上、「東征」でも「東遷」でも、どちらを使ってもよい気もします。
しかし、当サイトで「東遷」を使っているのは、そんなものすごく大それた主義主張があるわけではないのですが、
・「東征」は、東方への(また戻ってくるかもしれない根拠地からの)遠征
・「東遷」は、東方への(遠征も含むかもしれないが)遷移・移動
というようなニュアンスが、言葉上大きいのではないか、と考えてのことです。
では、神武天皇の「東行」はどちらか、と言えば、明らかに後者でしょう。「東方への遠征」であれば、もしかすると、もう一度「高千穗宮」に戻って来る、ということをも示唆します。
『古事記』の流れからも、神武天皇一行が「高千穗宮」に戻って来る、という選択肢はあり得なかった。なぜなのか、は分かりません。「軍事を連想させる」云々に限らず、この場合は、「東遷」の方が字義的にも妥当なのではないでしょうか。
誤解を生まないためにも、現代の日本人でも理解できる『古事記』の言葉である「東行」を使用するのが、間違いないところなのかもしれませんが。
しかし、ここは当サイトの見解ではあるのですが、『古事記』最大の謎とも絡んでくるところです。特に引用ではないのですが、強調する意味を込めて。
国譲りの舞台は、出雲(島根県)。これはほぼ間違いないでしょう。しかし、天孫が降臨したのは、出雲でも、その前までに出雲が勢力下においたであろう大和(奈良。オオクニヌシがオオモノヌシによる三輪山の祭祀<=大神神社の起源>の神託を受けたのは天孫降臨の前)でもない、なぜか、高千穂。高千穂は、まず通説通り、九州でよいのでしょう。神武天皇の「東遷」が九州から出発しているのはまず間違いないので。
しかし、なぜ、神武天皇の曾祖父たる天孫ニニギの降臨地が、出雲でも、大和でもないのか。それらとはとんでもなく離れている高千穂(九州)なのか。
一部ではよく言われていることではあるのですが、この謎、面と向かって答えた人はあまりいないのではないでしょうか。
と、えらそうなことを言っても、当サイトの見解も固まっているわけではありません。ただ、なぜ「天子」ではなく、「天孫」が降臨したのか、という点と、天孫降臨の道案内をしたはずのサルタヒコが、現在九州ではあまり祀られていない(皆無ではありません)、という点を考えて。
“天孫族”は、実は一度は大和に降臨を果たそうとしたのではないか。国譲りを受けて、大義名分もあるし。そこが国の真ん中、という意識もあったはず。しかし、現地勢力が強すぎて、敗走を余儀なくされる。海を越えて四国に上陸、さらにまた海を越えて遠く九州へ逃れた、という可能性があるのではないでしょうか。
さらに言えば、最初はやはり出雲の近くに降臨しようとしたのではないか。鳥取県西伯郡大山町上萬の壹宮神社には興味深い伝承があります。ここから大和を目指し、上述に続きます。また、壹宮神社の伝承は、天子降臨も示唆しています。
近畿から九州への移動は、事情も背景も、ルートも違いますが、後年の足利尊氏を思わせます。
ともかく、『古事記』にあるサルタヒコとは、天孫族の大和から九州への敗走を手助けした一族だったのかもしれない。その中間、というよりはだいぶ大和寄りではありますが、阿波国(徳島県)にはサルタヒコを祀る一宮・大麻比古神社があります。隣の讃岐国一宮・田村神社でもサルタヒコは祀られています。
また、それだけの敗走であれば、一族の長たる「天子(アメノオシホミミ)」がその過程で、仮に戦死したとしても、全く不可解ではありません。
当初は「天子降臨」だったけど、神話になった時に、「天孫降臨」になった、のかもしれない。
だから、出雲の国譲り後、天孫たちは九州へ降臨した、という、不可解な神話になった、のかもしれない。大和に天孫降臨の伝承が根強く残っているのも、全くのでたらめではない。
なぜ「天子」ではなく、「天孫」なのか、というのは、
1.朝鮮半島に類似の神話があり、その影響。
2.神話形成時の天皇家が、祖母から孫への継承だったための、その影響。
などの解釈もありますが、それだけでは、なぜ降臨地が九州なのか、の説明にはなりません。四国から逃れてきたのであれば、神話上の降臨地が、一般的に南九州である、と言われていることにも符合します。
さて、天孫族。九州で再起を図る。それは結果として三世代もの時間を費やすことになり、ニニギから見れば曾孫の代までかかることになります。
その過程で、四国(か、勢力下だった九州のどこか)で出会ったオオヤマツミ一族と盟約を結ぶ(天孫ニニギとサクヤの結婚)などで力を蓄えた、のではないでしょうか。しかし、何らかの不義があったのかもしれません(イワナガ伝承)。
だから、後述しますが、神武天皇の「東遷」も苦労することになる。念のため、伊予国(愛媛県)には、まさに瀬戸内海、神武東遷では避けては通れない大三島に、オオヤマツミを祀る一宮・大山祇神社があります。
神武天皇の「東遷」は、先祖が一度敗走していたためのリベンジだったのではないでしょうか? それは、決して九州に戻ってくることのないという、ある意味では悲壮な決意だったのかもしれません。だからこその、東方への遷移・移動なのではないか、と考える次第ではあります。
そもそも『古事記』において、登場のほぼ初っ端から、神武天皇は理由を述べることもなく、いきなり「東に行こう(東行)」と言い放ちます。考えてみればイミフ。
まあ、キレイごとを言っても、神武天皇の「東行」は明らかに軍事行動。それは、「東征」としても、「東遷」としても、変わりません。
上述の産経新聞は「古事記では16年に及ぶ神武天皇の旅は、大半が平和裏に進み、西日本各地は争うことなく帰順した」と言います。
いや、ここに矛盾があるでしょう。
確かに『古事記』には戦闘の様子こそ描かれていませんが、九州から、大和に進軍(何もなければなおさら、単純なお引越しですが)するとして、どのようにしたら16年もかかるのか。
まず間違いなく、西日本(九州から瀬戸内海にかけて)でも持久戦に持ち込まれるなどを含む、多くの戦いがあったはず。先述の、伊予の雄・オオヤマツミ一族の助力が、何らかの因縁から得られなかった、のかもしれません。
神武東遷よりははるかに前の話だったかもしれませんが、天孫降臨(天子降臨)の協力者だった、サルタヒコの不可解な死、というものとの関連も気になります。
『古事記』に、イワナガの伝承、天皇家の寿命を縮める力が、オオヤマツミにあった、ということをも示している、ということにはあまり触れられません。
「北の出雲、南の大山祇」です。国譲りをしたオオクニヌシと関連が深く、その意味ではオオクニヌシの国の明け渡しと、それを受けた天孫族に少なからず好意的だったのかもしれません。が、天孫族に不義があった。から、全面的な協力にはならなくなった。
ともかく、『古事記』では、その移動期間の長さを示すことで、暗に神武東遷の苦難を示しているのでしょう。
「軍事を連想させる」も何も、初めから、神武東遷は一大軍事事業。しかも、極めて困難な。そこも決してごまかさず、当サイトとしては、「東遷」が妥当なのかな、と思っている次第です。
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