【日刊】日本の城
・名称:人吉城(ひとよしじょう)
・別称:繊月城、三日月城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:熊本県人吉市麓町18-4
・電話:0966-22-2324
・日本100名城:第93番
- スタンプ:人吉城歴史館
人吉城(ひとよしじょう)は、肥後国(今の熊本県人吉市)にあった、江戸期には人吉藩の藩庁などにも機能した日本の城である。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、いわゆる球磨地方を治め、独自の文化をはぐくんだ。
築城年は元久年間(1204年-1206年)であり、廃城年は明治4年(1871年)。天守は築造されなかった。主な築城者は相良長頼で、主な改修者は相良義陽、相良頼寛である。
市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。
球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。
幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。
この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。
この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいものだが、いずれも人吉城の石垣ほどの規模ではない。
現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。
日本遺産「相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~ 日本でもっとも豊かな隠れ里― 人吉球磨 ~」の構成文化財の一つである。
【関連サイト】
・人吉市 人吉城歴史館
【関連記事】
・相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~ 日本でもっとも豊かな隠れ里― 人吉球磨 ~
・名称:人吉城(ひとよしじょう)
・別称:繊月城、三日月城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:熊本県人吉市麓町18-4
・電話:0966-22-2324
・日本100名城:第93番
- スタンプ:人吉城歴史館
人吉城(ひとよしじょう)は、肥後国(今の熊本県人吉市)にあった、江戸期には人吉藩の藩庁などにも機能した日本の城である。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、いわゆる球磨地方を治め、独自の文化をはぐくんだ。
築城年は元久年間(1204年-1206年)であり、廃城年は明治4年(1871年)。天守は築造されなかった。主な築城者は相良長頼で、主な改修者は相良義陽、相良頼寛である。
市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。
球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。
幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。
この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。
この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいものだが、いずれも人吉城の石垣ほどの規模ではない。
現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。
日本遺産「相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~ 日本でもっとも豊かな隠れ里― 人吉球磨 ~」の構成文化財の一つである。

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・人吉市 人吉城歴史館
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