【日刊】日本の城
・名称:島原城(しまばらじょう)
・別称:森岳城、高来城
・史跡:市の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:長崎県島原市城内1-1183-1
・電話:0957-62-4766
・日本100名城:第91番
- スタンプ:島原城受付窓口
島原城(しまばらじょう)は、肥前国(今の長崎県島原市)にあった、江戸期には島原藩の藩庁などにも機能した日本の城である。
築城年は寛永元年(1624年)であり、廃城年は明治3年(1871年)。天守の築造年は1626年、独立式層塔型4重5階(非現存)。1964年にRC造で独立式層塔型5重5階として復興。主な築城者は松倉重政。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。
本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言える。
同じ事例に、高松城の天守郭(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で、最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。
いわゆる島原の乱(1637年~38年(寛永14年~15年))。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
天守は、キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となっている。
日本の歴史公園100選に「島原城跡公園」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)はいない。
【関連サイト】
・島原城ポータルサイト
・名称:島原城(しまばらじょう)
・別称:森岳城、高来城
・史跡:市の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:長崎県島原市城内1-1183-1
・電話:0957-62-4766
・日本100名城:第91番
- スタンプ:島原城受付窓口
島原城(しまばらじょう)は、肥前国(今の長崎県島原市)にあった、江戸期には島原藩の藩庁などにも機能した日本の城である。
築城年は寛永元年(1624年)であり、廃城年は明治3年(1871年)。天守の築造年は1626年、独立式層塔型4重5階(非現存)。1964年にRC造で独立式層塔型5重5階として復興。主な築城者は松倉重政。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。
本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言える。
同じ事例に、高松城の天守郭(本丸)がある。また、天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で、最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。
いわゆる島原の乱(1637年~38年(寛永14年~15年))。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
天守は、キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となっている。
日本の歴史公園100選に「島原城跡公園」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)はいない。
【関連サイト】
・島原城ポータルサイト
コメント