「京都で一番怖い神社」? 大怨霊・早良親王を祀り、式内三社を合祀
[住所]京都府京都市左京区上高野西明寺山町34
[電話]075-722-1486
崇道神社(すどうじんじゃ)は、京都府京都市左京区上高野西明寺山町にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は早良親王(崇道天皇)で、平安遷都の要因となる、日本を代表する大怨霊。
社伝によれば、延暦4年(785年)9月、長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座した早良親王の霊を慰めるため、貞観年間(859年-877年)に創建された。
早良親王は桓武天皇の実弟で皇太子だったが、連座後、乙訓寺に幽閉され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現 大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。
その後、下記の不幸が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると断定された。
・桓武天皇の第一皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病
・桓武天皇妃藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子の病死
・桓武天皇と早良親王生母の高野新笠の病死
・疫病の流行や洪水など
何度も鎮魂の儀式が執り行われたが、平安京への遷都は延暦15年(794年)、その後まもなくの延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
当社はその50年後の創建。半世紀たっても、崇道天皇は時の朝廷にとって脅威であり続けたことを示している。
大正4年(1915年)に近隣にあった山城国 愛宕郡の式内社「出雲高野神社」「伊多太神社」(小社)、「小野神社二座」(小社、鍬靫)の三社が合祀された。境内社として三社が現存する。
伊多太神社(伊多太大神)は、上高野最古の神社で、伊多太(いたた)は「湯立て」を意味し、出雲系の農耕守護神とされる。
伊多太神社は、応仁の乱で焼失後、明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)に当社に合祀された。上高野大明神町には旧跡が保存されている。
出雲高野神社(玉依姫命)と、もう一つ、小野神社(小野妹子・小野毛人)は小野一族を祀る。境内の山中に御祭神である小野毛人の墓がある。
奈良時代の墓誌である「金銅小野毛人墓誌(附:銅函1合(延宝元年(1673年)11月在銘)、発掘関係書類1通)」が国宝に指定されている。
高野川に近い上高野は、小野氏ゆかりの里であり、京都でも早くから開けた地域。霊峰比叡山を間近に臨むことのできるこの里は、昔ながらの田園風景が今も残っている。
「京都で一番怖い神社」とも言われ、うっそうとした社叢で覆われた境内は昼なお暗く、独特の雰囲気が確かにある。夜間はなおさら。しかしそれがまたネットなどで話題ともなる。
すでに創建1200年。日本文化の法則から考えて、一貫して鎮魂され続けて御霊に昇華しており、むしろ膨大なパワーを秘めている社とも言える。
天皇家にとっては重要な歴史的事実を反映した神社であるにも関わらず、明治期の社格では村社にとどまっていることも、その当時すでに、十分慰霊されている、という判断があったのかもしれない。
なお、式内社「伊多太神社」の論社は他に、左京区大原野村町の江文神社がある。ただし、江文神社は有力視されていない、あるいは否定されており、当社境内社でほぼ確定している。
式内社「出雲高野神社」の論社は他に、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境外摂社である御蔭神社、上御霊神社、上京区上御霊前町の猿田彦神社がある。
御蔭神社は、式内社「小野神社」の論社でもある。式内社「小野神社」の論社は他に、賀茂別雷神社(上賀茂神社)境内末社の土師尾社がある。
【ご利益】
所願成就、開運、飽食・財運など

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[電話]075-722-1486
崇道神社(すどうじんじゃ)は、京都府京都市左京区上高野西明寺山町にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
御祭神は早良親王(崇道天皇)で、平安遷都の要因となる、日本を代表する大怨霊。
社伝によれば、延暦4年(785年)9月、長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座した早良親王の霊を慰めるため、貞観年間(859年-877年)に創建された。
早良親王は桓武天皇の実弟で皇太子だったが、連座後、乙訓寺に幽閉され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現 大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。
その後、下記の不幸が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると断定された。
・桓武天皇の第一皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病
・桓武天皇妃藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子の病死
・桓武天皇と早良親王生母の高野新笠の病死
・疫病の流行や洪水など
何度も鎮魂の儀式が執り行われたが、平安京への遷都は延暦15年(794年)、その後まもなくの延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
当社はその50年後の創建。半世紀たっても、崇道天皇は時の朝廷にとって脅威であり続けたことを示している。
大正4年(1915年)に近隣にあった山城国 愛宕郡の式内社「出雲高野神社」「伊多太神社」(小社)、「小野神社二座」(小社、鍬靫)の三社が合祀された。境内社として三社が現存する。
伊多太神社(伊多太大神)は、上高野最古の神社で、伊多太(いたた)は「湯立て」を意味し、出雲系の農耕守護神とされる。
伊多太神社は、応仁の乱で焼失後、明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)に当社に合祀された。上高野大明神町には旧跡が保存されている。
出雲高野神社(玉依姫命)と、もう一つ、小野神社(小野妹子・小野毛人)は小野一族を祀る。境内の山中に御祭神である小野毛人の墓がある。
奈良時代の墓誌である「金銅小野毛人墓誌(附:銅函1合(延宝元年(1673年)11月在銘)、発掘関係書類1通)」が国宝に指定されている。
高野川に近い上高野は、小野氏ゆかりの里であり、京都でも早くから開けた地域。霊峰比叡山を間近に臨むことのできるこの里は、昔ながらの田園風景が今も残っている。
「京都で一番怖い神社」とも言われ、うっそうとした社叢で覆われた境内は昼なお暗く、独特の雰囲気が確かにある。夜間はなおさら。しかしそれがまたネットなどで話題ともなる。
すでに創建1200年。日本文化の法則から考えて、一貫して鎮魂され続けて御霊に昇華しており、むしろ膨大なパワーを秘めている社とも言える。
天皇家にとっては重要な歴史的事実を反映した神社であるにも関わらず、明治期の社格では村社にとどまっていることも、その当時すでに、十分慰霊されている、という判断があったのかもしれない。
なお、式内社「伊多太神社」の論社は他に、左京区大原野村町の江文神社がある。ただし、江文神社は有力視されていない、あるいは否定されており、当社境内社でほぼ確定している。
式内社「出雲高野神社」の論社は他に、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境外摂社である御蔭神社、上御霊神社、上京区上御霊前町の猿田彦神社がある。
御蔭神社は、式内社「小野神社」の論社でもある。式内社「小野神社」の論社は他に、賀茂別雷神社(上賀茂神社)境内末社の土師尾社がある。
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