国宝「人物画像鏡」と「だんじり」で知られる、神功皇后の還幸途次の旧跡
[住所]和歌山県橋本市隅田町垂井622
[電話]0736-32-0188

隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)は、和歌山県橋本市隅田町垂井にある神社。近代社格では県社国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」で知られる。参拝すれば、御朱印を頂ける。

主祭神は、誉田別命(第15代応神天皇)、足仲彦尊(第14代仲哀天皇)、息長足姫命(神功皇后、第15代天皇の母)で、丹生都比売命、瀬織津比女命を配祀する。

神功皇后が三韓征伐後、筑前国から紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を経て大和に還幸の途次、この地に滞留した旧跡とされる。貞観元年(859年)に石清水八幡宮を勧請したのが創祀。

寛和2年(986年)、摂政藤原兼家が山城国男山にある石清水八幡宮の境内に建てた三味堂の料所として、紀伊国伊都郡隅田村を寄進、ここに石清水八幡宮社領紀伊国隅田庄が成立した。

永祚2年(990年)には国免庄としての隅田庄となり、万寿5年(1028年)には検田使が立ち入らない隅田庄となった。

延久元年(1069年)の荘園整理令にかかわらず、同4年9月5日付太政官の牒によって、石清水八幡宮の荘園として認められた。

以降、石清水八幡宮によって隅田庄の開発と支配が行われ、隅田別宮として勧請された。

天永元年(1110年)に隅田庄内の豪族・長(のちの藤原・隅田)忠延を当社の俗別当および隅田庄の公文(庄官)に任命して、当社の管理および隅田庄の支配をさせた。

忠延は隅田氏の祖といわれ、以後、当社の俗別当職と公文職の両職を隅田氏が世襲、当社の経営、祭祀権を隅田庄々官としての管理権に強大な力をもった。

永禄3年(1560年)2月、松永久秀が来攻し、社殿が焼失、慶長年間(1596年-1615年)に再建された。

隅田荘の産土神として規模は大きく、江戸時代の当社の神職には神主1人、禰宜2人、神子1人、供僧6人、宮使1人 承使1人があったと伝えられ、壮麗な社殿は今日なお、その面影を残している。

江戸時代後期の文政2年(1819年)に焼失、同5年(1822年)に再建され、現在に至っている。大正5年(1916年)11月、県社に列した。

1月15日に管祭(くだまつり)が行われる。小豆粥に竹の管を入れ、小豆、米の入り具合で稲の豊凶を占う。市の無形民俗文化財。

10月第1土曜・日曜日が例祭。秋まつりで、県下最大の担ぎ山車屋躰(だんじりやたい)が当番地区から4基(13基が年ごとに交代する)が、笛・太鼓で囃子ながら巡行する。

紙子や幣をかざした子供達が先駆を勤め宮入りする。「だんじり」として知られ、県の無形民俗文化財に指定されている。また、花菖蒲園が有名で、6月中旬前後には観光客で賑わう。

国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」は、日本最古の金石文の一つが刻まれ、以下のようにあり、およそ下記のように読む。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る
「癸未年」は503年とされるが、諸説あり、443年とするものもある。この鏡は現在、東京国立博物館に寄託している。

【ご利益】
厄除け、所願成就、安産(公式HP - 記載なし)
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隅田八幡神社の御朱印