熊野権現や熊野信仰の発祥の地、足利義満が寄進した神宝が国宝指定
[住所]和歌山県新宮市阿須賀1-25-25
[電話]0735-22-3986

阿須賀神社(あすかじんじゃ)は、和歌山県新宮市阿須賀にある神社。近代社格では村社。熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場第23番。参拝すれば、御朱印を頂ける。

熊野川河口近くにある蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている。

徐福伝説がある。当社の境内には徐福の宮が摂社として祀られ、徒歩で数分、北に行ったところには徐福の墓もある。

熊野速玉大社伝の『新宮本社末社総目録』に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られる。また、もともとは陸から離れた島であったともされる。

熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵谷(いわぶちだに)に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所となる。

その他、境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、熊野における歴史と信仰の最も古い層に関わる地として重要である。熊野権現や熊野信仰の発祥の地とされ、いわば熊野三山の元宮。神倉神社にも似た伝承があり、神倉神社との関係も深い。

社伝によれば第5代孝昭天皇の代の創建と伝えられる。平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀った。

平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、当社に参詣することが常で、『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の王子社としての扱いを受けていた。

『平家物語』巻十には平維盛が新宮で「明日社ふし拝み」と記され、当社への参拝が一般的な事柄だった。

『紀伊続風土記』によれば、近世の当社には、並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などがあった。明治40年(1907年)、熊野速玉大社の末社であった八咫烏社(建角美命)・宮戸社(黄泉津道守命)などを合祀した。

御祭神は、事解男命(ことさかおのみこと)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。事角見命(事角見神、たけつねのかみ)、黄泉津道守命(黄泉津道守神、よもつみちぬのかみ)を配祀する。

当社伝来の、明徳元年(1390年)に足利義満が当社の造替に際して奉納した工芸品類が「古神宝類 一括」として国宝に指定されている。京都国立博物館が所蔵。蓬莱山経塚や阿須賀遺跡でも貴重な遺物や遺構が検出されている。

手水鉢は、新宮城第二代城主の水野重良により寛永8年(1631年)に寄進されたもので、黒雲母花崗斑岩の巨大な一枚岩を刻んで仕上げられたもの。同様に神倉神社にも手水鉢が寄進されている。

神像三体(速玉神坐像、夫須美神坐像、奇御食神坐像)があったが、昭和20年(1945年)7月17日に戦災で焼失した。

例祭は10月15日。古式豊かな神馬巡行の儀がある。

【ご利益】
身体壮健、不老長寿、リフレッシュなど
阿須賀神社 - 熊野権現や熊野信仰の発祥の地、足利義満が寄進した神宝が国宝指定
【関連記事】
国宝が伝わる神社 - 所蔵、所有、由来している美術工芸品が国宝に指定されている神社
熊野三山とは? - 本宮、速玉、那智の各大社の総称、世界遺産で今や世界に名だたる聖地
和歌山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、和歌山県に鎮座している神社の一覧
阿須賀神社の御朱印