京都の鬼門守護・出雲路道祖神、「御石さん」は縁結び、浮気封じの信仰
[住所]京都府京都市上京区寺町通今出川上る西入幸神町303
[電話]075-231-8774
幸神社(さいのかみのやしろ)は、京都府京都市上京区にある神社。近代社格では村社。出雲路幸神、出雲路道祖神社などとも。
境内にある御神体の「御石さん(おせきさん)」は縁結び、浮気封じの信仰があるという、京都のパワースポットの一つ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
現在、御祭神は猿田彦大神。相殿に天之御中主日御神、可美葦牙彦舅尊、天照皇太神、皇孫瓊々杵尊、天鈿女命、大国主尊、少彦名太神、事代主命が祀られている。
本殿北東角に、鬼門除けの意味を持つとされる猿の神像が祀られている。猿は右肩に御幣を担ぎ、北東を向く。
御所の鬼門の猿ヶ辻、その北東方向に当社、さらに北東に赤山禅院、比叡山延暦寺、日吉大社が位置し、都の北東よりの邪気の侵入に対して四重に防御しているとされる。
当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興。桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営。2年後のこととも。平安遷都後初めての神社とも言われる。
『延喜式』に、外国使臣の来朝に際し、洛中洛外の境である当所において、使臣などの入京に先立ち、祓の麻を賜い、神事を修すとある。現今、諸方の神社で御礼(大麻)、御守(小麻)を授与することの原形とされる。
『百練抄』と当社所蔵の旧記によれば、朱雀天皇の天慶2年(939年)に御分霊を内裏に奉遷、庚申祭を執行した。また、同旧記によれば、一条天皇の長保元年(999年)、天慶同様の儀を執行した。
『本朝世記』では、近衛天皇の久安4年(1148年)3月4日の皇宮炎上によって類焼とみえ、『明月記』に、後堀河天皇の嘉緑2年(1226年)、近隣民家の出火で類焼とある。
社号に幸の字をあてた時代は判明しないが、天和2年(1682年)、神主奥村右京の記した縁起や、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号がすでに見られる。
当社の御分霊を祀る伝承を持つ神社に、宮城県名取市の式内社「佐具叡神社」(現 佐倍乃神社に合祀)があり、東京都西多摩郡日の出町大久野の幸神神社には、建武2年(1335年)に御分霊を奉斎したとの伝承がある。
応仁の乱において、細川勝元が当地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって焼失。社地は荒廃したが、祭祀は受け継がれ、当社旧記に種々の記録が見える。
慶長年間(1596年-1615年)、豊臣秀吉による京都整備において、封域を大幅に縮小させられて、小祠となった。
しかし天和2年(1682年)、会津藩出身の奥村右京仲之が神主として復興、次いで宝永2年(1705年)、僧光栄が立願して再建、西隣を社地に編入する。翌3年には神輿を奉造する。
同5年、類焼して灰燼に帰したが、翌6年に再建、さらに東隣を社地に加え、往時の姿を整える。寛保3年(1743年)には桜町天皇が神輿を寄進。天明8年、京都の大火でまた類焼し、その後再建。
明治6年(1873年)に村社に列格、明治25年(1892年)に公費供進社に指定される。
安井金比羅宮、福長神社とあわせて、縁切りの三社めぐりが行われる。必ず、1.安井金比羅宮、2.当社、3.福長神社の順で回らなければならないとされる。安井金比羅宮ではなく、野宮神社で、当社、福長神社の組み合わせであれば、縁結びの三社めぐりになるという。
【ご利益】
疫病、悪霊を防ぐ道祖神、鬼門除けの守護神、芸能上達、旅行安全など

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幸神社(さいのかみのやしろ)は、京都府京都市上京区にある神社。近代社格では村社。出雲路幸神、出雲路道祖神社などとも。
境内にある御神体の「御石さん(おせきさん)」は縁結び、浮気封じの信仰があるという、京都のパワースポットの一つ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
現在、御祭神は猿田彦大神。相殿に天之御中主日御神、可美葦牙彦舅尊、天照皇太神、皇孫瓊々杵尊、天鈿女命、大国主尊、少彦名太神、事代主命が祀られている。
本殿北東角に、鬼門除けの意味を持つとされる猿の神像が祀られている。猿は右肩に御幣を担ぎ、北東を向く。
御所の鬼門の猿ヶ辻、その北東方向に当社、さらに北東に赤山禅院、比叡山延暦寺、日吉大社が位置し、都の北東よりの邪気の侵入に対して四重に防御しているとされる。
当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興。桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営。2年後のこととも。平安遷都後初めての神社とも言われる。
『延喜式』に、外国使臣の来朝に際し、洛中洛外の境である当所において、使臣などの入京に先立ち、祓の麻を賜い、神事を修すとある。現今、諸方の神社で御礼(大麻)、御守(小麻)を授与することの原形とされる。
『百練抄』と当社所蔵の旧記によれば、朱雀天皇の天慶2年(939年)に御分霊を内裏に奉遷、庚申祭を執行した。また、同旧記によれば、一条天皇の長保元年(999年)、天慶同様の儀を執行した。
『本朝世記』では、近衛天皇の久安4年(1148年)3月4日の皇宮炎上によって類焼とみえ、『明月記』に、後堀河天皇の嘉緑2年(1226年)、近隣民家の出火で類焼とある。
社号に幸の字をあてた時代は判明しないが、天和2年(1682年)、神主奥村右京の記した縁起や、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号がすでに見られる。
当社の御分霊を祀る伝承を持つ神社に、宮城県名取市の式内社「佐具叡神社」(現 佐倍乃神社に合祀)があり、東京都西多摩郡日の出町大久野の幸神神社には、建武2年(1335年)に御分霊を奉斎したとの伝承がある。
応仁の乱において、細川勝元が当地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって焼失。社地は荒廃したが、祭祀は受け継がれ、当社旧記に種々の記録が見える。
慶長年間(1596年-1615年)、豊臣秀吉による京都整備において、封域を大幅に縮小させられて、小祠となった。
しかし天和2年(1682年)、会津藩出身の奥村右京仲之が神主として復興、次いで宝永2年(1705年)、僧光栄が立願して再建、西隣を社地に編入する。翌3年には神輿を奉造する。
同5年、類焼して灰燼に帰したが、翌6年に再建、さらに東隣を社地に加え、往時の姿を整える。寛保3年(1743年)には桜町天皇が神輿を寄進。天明8年、京都の大火でまた類焼し、その後再建。
明治6年(1873年)に村社に列格、明治25年(1892年)に公費供進社に指定される。
安井金比羅宮、福長神社とあわせて、縁切りの三社めぐりが行われる。必ず、1.安井金比羅宮、2.当社、3.福長神社の順で回らなければならないとされる。安井金比羅宮ではなく、野宮神社で、当社、福長神社の組み合わせであれば、縁結びの三社めぐりになるという。
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