往時は伊勢神宮に劣らぬ大きな神社だった、雨乞いに霊験あった神
[住所]富山県富山市宮保476
[電話]076-429-0730
熊野神社(くまのじんじゃ)は、富山県富山市宮保にある神社。御朱印の有無は不明。斎明天皇4年(658年)の創建。例祭は4月2日。
『延喜式神名帳』にある「熊野神社(越中国・婦負郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
御祭神は櫛御気野命。一説には伊弉冉尊、事解男神、速玉男神の三柱とも。出雲系(熊野大社)の御祭神とする説、紀伊系(熊野三山)の御祭神とする説の両方がある。 天照大神、応神天皇、水罔女神を合祀する。
当社の所在地という意味で、当地を熊野郷と呼ぶようになり、その熊野郷は上熊野と下熊野の二村にわけ、供田や神饌田を有して社家と神子の両家で神事をとり行い、一、二、三の鳥居の続いた大社だった。
神前を流れる川で手を清めて参拝したので、その御手洗川を熊野川と呼ぶようになった。現在ではこの熊野川は境内を去ること1キロほどの距離にある。往時は、広大な神域を有していたことが、鳥居の沓石や下部の木柱の発掘などで判明している。
富山新聞(昭和40年11月30日)ではこれに対して、「伊勢神宮(伊勢の神宮)に劣らぬ大きな神社であったことを物語る」としている。
享保10年(1725年)7月、長期にわたる日照りが続いた時、当時の神官横越阿波守則恒が藩主の命を受け、17日間の雨乞いの祈祷を行った。領内の神官全員参列しての神事だったが、その7日目に雨が降り出し、その後、霊験を称えて参拝する人の列が続いたという。
寛政10年(1798年)、社殿を改築。天保6年(1835年)に富山藩主となった、木草学(薬学)の大家でもある前田利保は、領内の巡視にはいつも当社へ立ち寄り、神前へ詣でては五穀の豊作と天平の泰平を祈り、その祈願料として高10石を奉納。この慣例は明治維新まで続いた。
式内社「熊野神社」の論社は他に、熊野神社(中名)、熊野神社(友坂)、熊野神社(熊野道)がある。
【ご利益】
雨乞い、五穀豊穣・財運・商売繁盛、開運、厄除け
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熊野神社(くまのじんじゃ)は、富山県富山市宮保にある神社。御朱印の有無は不明。斎明天皇4年(658年)の創建。例祭は4月2日。
『延喜式神名帳』にある「熊野神社(越中国・婦負郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
御祭神は櫛御気野命。一説には伊弉冉尊、事解男神、速玉男神の三柱とも。出雲系(熊野大社)の御祭神とする説、紀伊系(熊野三山)の御祭神とする説の両方がある。 天照大神、応神天皇、水罔女神を合祀する。
当社の所在地という意味で、当地を熊野郷と呼ぶようになり、その熊野郷は上熊野と下熊野の二村にわけ、供田や神饌田を有して社家と神子の両家で神事をとり行い、一、二、三の鳥居の続いた大社だった。
神前を流れる川で手を清めて参拝したので、その御手洗川を熊野川と呼ぶようになった。現在ではこの熊野川は境内を去ること1キロほどの距離にある。往時は、広大な神域を有していたことが、鳥居の沓石や下部の木柱の発掘などで判明している。
富山新聞(昭和40年11月30日)ではこれに対して、「伊勢神宮(伊勢の神宮)に劣らぬ大きな神社であったことを物語る」としている。
享保10年(1725年)7月、長期にわたる日照りが続いた時、当時の神官横越阿波守則恒が藩主の命を受け、17日間の雨乞いの祈祷を行った。領内の神官全員参列しての神事だったが、その7日目に雨が降り出し、その後、霊験を称えて参拝する人の列が続いたという。
寛政10年(1798年)、社殿を改築。天保6年(1835年)に富山藩主となった、木草学(薬学)の大家でもある前田利保は、領内の巡視にはいつも当社へ立ち寄り、神前へ詣でては五穀の豊作と天平の泰平を祈り、その祈願料として高10石を奉納。この慣例は明治維新まで続いた。
式内社「熊野神社」の論社は他に、熊野神社(中名)、熊野神社(友坂)、熊野神社(熊野道)がある。
【ご利益】
雨乞い、五穀豊穣・財運・商売繁盛、開運、厄除け
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