富山市婦中町、国の重要無形民俗文化財「越中の稚児舞」が有名
[住所]富山県富山市婦中町中名851-1
[電話]076-465-2703 - 婦中教育行政センター

熊野神社(くまのじんじゃ)は、富山県富山市婦中町中名にある神社。『延喜式神名帳』にある「熊野神社(越中国・婦負郡)」に比定される式内社(小社)の論社の一つ。加茂神社の稚児舞などとともに、国の重要無形民俗文化財に指定されている「越中の稚児舞」の一つ、熊野神社稚児舞が有名。御朱印の有無は不明。

御祭神は、伊弉册尊(イザナミ)、事解男神、速玉男神。『爲成郷十八ケ村総氏神熊野神社御由緒記』によれば、往古よりの大社として社家社僧が奉祀し、鎌倉初期の承元元年(1207)に立山の光明房林海を始め、時宗系の僧徒も奉仕したと伝える。

創建当時より当神社は婦負郡爲成郷十八ヶ村、中名、蔵島、持田、萩島、道場、堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川原、爲成新、道喜島、十五丁の総鎮守として今猶当社を氏神と崇敬し、毎年初穂米を神納されている。

應仁年間(1467年-1469年)、京都の神祇管領吉田神社よりも神官が下向奉仕したという。永禄年中(1558年-1570年)、兵火に遭うも、寛永年間(1624年-1643年)以来、領主前田家累代の信仰が厚く、宝永7年(1710年)社殿を造営、古式の祭典も復興した。

明治6年(1873年)、村社に列せられた。

宝永元年(1704年)秋、爲成郷内に悪疫が流行し、当時の肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子と、召使の者が相次いで病気にかかった。その時爲成郷の各村々の人達が、当社の祭事を怠った、神罰と考えられた。

祭事を復興するようにという熊野大神の託宣もあり、源左衛門は私財を投じて盛大な祭りを行ったところ、悪病はたちまち退散し豊作に恵まれ、それ以来爲成郷内の氏子一同挙げて祭禮を盛大に奉仕することとなった。

これに由来して御遷宮式と称し、宝永7年(1710年)庚寅に第一回とし、12年の寅の年毎に坪野村の若林源左衛門の屋舗を御旅所と定め、爲成郷の各村々を神輿が御巡幸する大祭典を、爲成郷の里を挙げて今もなお奉仕している。

稚児舞はこの時の祭りに由来し、例年8月25日の例大祭に拝殿の正面に舞台を設置し、氏子より選ばれた10歳までの男児大稚児2人、小稚児2人計4名で舞楽を奉納している。

この舞楽の種目は次の順で舞うことに定められている。

一、鉾の舞
二、賀古の舞
三、林歌の舞
四、蛭子の舞
五、小奈曽利の舞
六、大奈曽利の舞
七、陪臚の舞

この舞楽が終了の後に、境内鳥居の向って左側に高く積み上げた土俵上において大花相撲が奉納されていた。これを中の名の高土俵関と称して近郷から関を争ったという。

なお、式内社「熊野神社」の論社は他に、熊野神社(宮保)熊野神社(友坂)熊野神社(熊野道)がある。

【ご利益】
五穀豊穣・商売繁盛・財運、病災厄除、身体壮健など
熊野神社(中名) - 富山市婦中町、国の重要無形民俗文化財「越中の稚児舞」が有名
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