【日刊】日本の城
名称:大野城(おおのじょう)
別称:-

史跡:国の特別史跡
国宝:-
重文:-

住所:福岡県糟屋郡宇美町四王寺
電話:
日本100名城:第86番
  - スタンプ:福岡県立四王寺県民の森管理事務所、太宰府市文化ふれあい館、大宰府展示館、大野城市総合体育館

大野城(おおのじょう)は、筑前国(今の福岡県大野城市)にあった日本の城である。古代山城、朝鮮式山城とも。

663年の白村江の戦いにおいて、百済復興を目指す倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れた。そこで倭国は防備を固めるため、様々な防衛施設を建設したことが『日本書紀』に記されている。

664年、対馬・壱岐・筑紫に防人とのろし台を設置、大宰府の西方に水城を築造。翌665年(天智4年)8月、長門に城を築き、同年同月に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫へ派遣、大野と椽(き)に城を築かせた。

このうち、筑紫の大野に築かれた城が大野城である。椽に築かれた城は基肄城と比定されている。

大宰府北方、大宰府の真北標高約410メートルを最高峰とする四王寺山一帯に築城されたと考えられている。

山名を四王寺山とも呼ぶが、これは光仁天皇宝亀5年(774年)に、外敵駆逐を祈願して山頂に円満山四王院が建立された経緯からだという。その蔵の跡と思われる礎石周辺からは炭化した焼米も発見されている。

四王寺山には、尾根をつたって延々8200メートル以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれ、北方に1箇所、西南に1箇所、南部に2箇所の城門を開いている。

城内の高く平たいところには数棟ずつ7箇所ほどに、都合70棟ほど礎石群が残っている。なかには望楼あるいは屯所的なものもみられるが、大多数は梁間三間、桁行五間という規格に統一され、礎石を用いた総柱の建物である。

これらは高床式の倉庫であり、武具の他、炭化した米粒などが検出されていることから穀物なども貯蔵していたことが分かる。

大宰府北方という立地から、大宰府防衛を目的とした城であると考えられている。

山頂の西に張り出した尾根を火ノ尾崎といい、烽火台跡、鼓峰は今でいう軍団駐屯地跡とされ、毘沙門天の遺構がある。付近では経筒などの遺物も出土している。

なお、大野城市の名称はこの大野城に由来する。

「大野城址」として、日本遺産古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~」(2015年)の構成文化財となっている。
大野城 筑前国(福岡県大野城市) - サムネイル写真
【関連サイト】
特別史跡 大野城址 - 大野城市