妃を失ったヤマトタケルが奉斎した風の女神、「松」の伝承が残る式内古社
[住所]千葉県市原市姉崎2278
[電話]0436-61-5040

姉埼神社(あねさきじんじゃ)は、千葉県市原市姉崎にある神社。社名は「姉埼」であるが、所在地の地名は「姉崎」。参拝すれば、「式内」が明記された御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 上総国 海上郡「姉埼神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

主祭神は風の神で、女神である支那斗弁命(しなとべのみこと)。当社では、かつては神輿が行き来し、深い関係にあった島穴神社の御祭神である志那都比古尊の妻もしくは姉であるとする。

日本武尊天児屋根命、塞三柱神(さえのみはしらのかみ)、大雀命(おおささきのみこと)を配祀する。

第12代景行天皇40年、日本武尊が東征の際、走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭ったが、妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた(『古事記』該当部分)。

社伝では、日本武尊が当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが当社の始まりと伝える。

日本武尊の歿後、父である景行天皇は日本武尊の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊を合祀。

第13代成務天皇5年、当地を支配していた上海上国造・忍立化多比命が天児屋根命と塞三柱神を合祀し、第17代履中天皇4年、忍立化多比命の孫の忍兼命が大雀命を合祀。

姉崎一帯は上海上国造の勢力の中心地であり、姉崎古墳群ほか多くの古墳が残っている。

『日本三代実録』では、元慶元年(877年)5月17日、従五位上勲五等から正五位下勲五等に進み、元慶8年(884年)7月15日には正五位上勲五等に。

その後、天慶3年(940年)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振が奉納された。次いで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。

慶長2年(1597年)には松平参州侯が、慶長6年(1601年)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。

なお、元和4年(1618年)11月には、この地の領主松平直政が社領35石を寄進し、蘆屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。江戸期には「明神」と呼ばれた。

明治維新後、当地は木更津県となり、近代社格制度において県社に列格した。

昭和61年(1986年)、火災に遭い、本殿と神木が焼失した。現在の本殿はその後に再建されたものであり、神木は焼け残った芽から育て直された。

当地では松を忌む風習が残り、地名譚も含め、様々な伝承が残る。

支那斗弁命と志那都比古尊がこの地を訪れた際、姉神(支那斗弁命)の方が先に来て当地で弟神(志那都比古尊)を待ったので「あねがさき」という地名になった。

また、支那斗弁命が「待つのはつらい」と嘆いたことから、「待つ」に通じる「松」が当地では忌まれるようになった。現在でも当社氏子は正月の門松を飾らない。

当社では、この故事を『古事記』に収録されている須勢理毘売命の歌に通じるものがあると示唆している。

もとの地名は「姉ヶ松」であったとする伝承もある。

「あねがまつ」となり、当地では姉妹二人の場合、妹が先に嫁ぎ、姉がなかなか嫁げないという言い伝えがあり、姉が先に結婚できるよう、「あねがさき」に改称したとも。

特殊神事として、「牛ほめ」の神事があったが、今は中絶している。例大祭は夏季(7月20日)と秋季(10月20日)。

なお、神紋は五七桐で、これは東京湾奥に鎮座する、いずれも式内社の蘇我比咩神社飽富神社とも共通している。

【ご利益】
待ち人来る、恋愛成就、夫婦円満、家内安全、武運長久など
姉埼神社 - 妃を失ったヤマトタケルが奉斎した風の女神、「松」の伝承が残る式内古社
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姉埼神社の御朱印