大和からの歌姫越え国境に鎮座する、道真ゆかりの手向けの神
[住所]奈良県奈良市歌姫町999
[電話]0742-43-1618
添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、奈良県奈良市歌姫にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「添御縣坐神社(大和国・添下郡)」に比定される式内社(大社)の論社。
式内「添御縣坐神社」は高市、葛木、十市、志貴、山辺(別所町 | 西井戸堂町)、曾布の、大和の六か所の御縣の一つで、それら御縣神社(大和六処御県神社、大和国六御県神社)の一つ。
曾布が添郡(後に添上郡・添下郡に分割)に該当する。
正倉院文書『大倭国正税帳』の天平2年(730年)に記載があり、神階綬叙記録としては、『三代実録』に貞観元年(859年)正月27日条で「大和国従五位下……添御県神……従五位上を授く」とあるのみ。
ほとんどの考証が、三碓にある同名神社を式内社に比定しているが、論拠は少し弱く、『大和志料』では当社をあてている。
歌姫の地が添御県(添郡)の中心地帯と考えられ、農耕に適した地であること、鎮座地の小字名が「御県山」など、当社には傍証もある。
御祭神は、建速須佐男之命、櫛稲田姫之命、武乳速之命(たけちはや)。神名帳に祭神一座とあることから、本来は武乳速之命のみと思われる。
武乳遣命(たけちのこのみこと)などともされ、武乳速命などとも表記される武乳速之命について、当社では、添の御県の地の祖神としている。
江戸時代には牛頭天王社・八王子社として、除災の神として信仰されたようなので、中世後半から近世にかけて、牛頭天王とその妃神の勧請が行われ、いつしか首座が逆転した模様。
当社は、大和平野中央を貫く古代の下ツ道の北端に位置し、大和から歌姫を越えて諸国へ旅をする際(いわゆる歌姫越え)に、国境に鎮座する手向けの神として崇敬された。
『万葉集』(300番)に左大臣・長屋王の詠んだ、下記の歌がある。
旅の安全を祈念したもので、農業の神ばかりではなく、旅の神としても認知されていた。
また、昌泰元年(898)10月、宇多天皇の吉野行幸に従った菅原道真の歌(『古今集』小倉百人一首)に
この故事もあり、道真ゆかりの神社ともなっている。
以上二首の歌碑が境内にある。なお、道真の歌に関しては、手向山八幡宮にも伝承が残る。
本殿は、一間社流造・朱塗り・桧皮葺。元は東向きだったが、郡山藩主の参勤交代に際して、神前を通るのが恐れ多いとして南向きに改められたという。
『平城村史』によれば、宝暦5年(1755年)に修理、さらに明治25年(1892年)・大正4年(1915年)の修理を経たものが現在の社殿だという。
3月11日が春の大祭、11月28日が秋の大祭。
【ご利益】
厄除け、防疫・防災、縁結び、五穀豊穣、財運、合格祈願

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[電話]0742-43-1618
添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、奈良県奈良市歌姫にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「添御縣坐神社(大和国・添下郡)」に比定される式内社(大社)の論社。
式内「添御縣坐神社」は高市、葛木、十市、志貴、山辺(別所町 | 西井戸堂町)、曾布の、大和の六か所の御縣の一つで、それら御縣神社(大和六処御県神社、大和国六御県神社)の一つ。
曾布が添郡(後に添上郡・添下郡に分割)に該当する。
正倉院文書『大倭国正税帳』の天平2年(730年)に記載があり、神階綬叙記録としては、『三代実録』に貞観元年(859年)正月27日条で「大和国従五位下……添御県神……従五位上を授く」とあるのみ。
ほとんどの考証が、三碓にある同名神社を式内社に比定しているが、論拠は少し弱く、『大和志料』では当社をあてている。
歌姫の地が添御県(添郡)の中心地帯と考えられ、農耕に適した地であること、鎮座地の小字名が「御県山」など、当社には傍証もある。
御祭神は、建速須佐男之命、櫛稲田姫之命、武乳速之命(たけちはや)。神名帳に祭神一座とあることから、本来は武乳速之命のみと思われる。
武乳遣命(たけちのこのみこと)などともされ、武乳速命などとも表記される武乳速之命について、当社では、添の御県の地の祖神としている。
江戸時代には牛頭天王社・八王子社として、除災の神として信仰されたようなので、中世後半から近世にかけて、牛頭天王とその妃神の勧請が行われ、いつしか首座が逆転した模様。
当社は、大和平野中央を貫く古代の下ツ道の北端に位置し、大和から歌姫を越えて諸国へ旅をする際(いわゆる歌姫越え)に、国境に鎮座する手向けの神として崇敬された。
『万葉集』(300番)に左大臣・長屋王の詠んだ、下記の歌がある。
佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く弊は 妹を目離れず 相見しめとぞ「佐保を出て 奈良山の峠に奉る弊は 愛する妻と何時も一緒に居させてほしい」、つまり、旅から無事に帰って妻に逢わせてほしいという願いが込められている。
旅の安全を祈念したもので、農業の神ばかりではなく、旅の神としても認知されていた。
また、昌泰元年(898)10月、宇多天皇の吉野行幸に従った菅原道真の歌(『古今集』小倉百人一首)に
このたびは 弊もとりあへず手向山 もみぢの錦 神のまにまにがある。支度もそこそこで出立した旅なので、お供えするヌサも用意できませんでした。代わりとして、手向山を彩る綾錦のように見事な紅葉を手向けまして、旅の安全は神の御心にお任せする。
この故事もあり、道真ゆかりの神社ともなっている。
以上二首の歌碑が境内にある。なお、道真の歌に関しては、手向山八幡宮にも伝承が残る。
本殿は、一間社流造・朱塗り・桧皮葺。元は東向きだったが、郡山藩主の参勤交代に際して、神前を通るのが恐れ多いとして南向きに改められたという。
『平城村史』によれば、宝暦5年(1755年)に修理、さらに明治25年(1892年)・大正4年(1915年)の修理を経たものが現在の社殿だという。
3月11日が春の大祭、11月28日が秋の大祭。
【ご利益】
厄除け、防疫・防災、縁結び、五穀豊穣、財運、合格祈願

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