ナガスネヒコともされる神、南北朝期の重文・社殿のある古社
[住所]奈良県奈良市三碓3-5-8
[電話]0742-43-1428

添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、奈良県奈良市三碓にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「添御縣坐神社(大和国・添下郡)」に比定される式内社(大社)の論社。

式内「添御縣坐神社」は高市葛木十市志貴、山辺(別所町 | 西井戸堂町)、曾布の、大和の六か所の御縣の一つで、それら御縣神社(大和六処御県神社、大和国六御県神社)の一つ。

曾布が添郡(後に添上郡・添下郡に分割)に該当する。

正倉院文書『大倭国正税帳』の天平2年(730年)に記載があり、神階綬叙記録としては、『三代実録』に貞観元年(859年)正月27日条で「大和国従五位下……添御県神……従五位上を授く」とあるのみ。

ほとんどの考証が、当社を式内社に比定しているが、論拠は少し弱く、『大和志料』では歌姫の社をあてている。

御祭神は、建速須佐男之命櫛稲田姫之命、武乳速之命(たけちはや)。神名帳に祭神一座とあることから、本来は武乳速之命のみと思われる。

武乳遣命(たけちのこのみこと)などともされ、武乳速命などとも表記される武乳速之命について、当社では、富雄・三碓地域の一帯を開拓し、治めていた首長とされ、『古事記』に登場する登美能那賀須泥毘古とされるとしている。

記紀でナガスネヒコの根拠地とされる鳥見(登美)とは、当地を含む富雄川の流域とされ、当社見解に合致する。

『大和志』などでは、江戸期に当社が天王社と呼ばれていたため、いずれかの時代で牛頭天王とその妃神を勧請したものとみられる。

創建は不詳だが、鎮座の起源は古墳時代まで遡ることができるとされる。当社は、富雄川の東方小高い斜面にあり、生駒の暗峠を越えて奈良と難波を結ぶ旧大阪街道はここから1キロ南にある。

この街道は古くから物資交流の要路で、奈良時代には豪族小野氏の拠点だったという。

小野氏は、第5代孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命を祖とする和爾氏(後の大春日氏)に連なる氏族で、7世記後頃半から平安中期頃にかけて活躍した。

本殿は、五間社流造・朱塗り・檜皮葺、屋根に千鳥破風3基をもち、西面する。現社殿は南北朝時代末期・永徳3年(1383年)の造営で、現在は国の重要文化財に指定されている。

以降、永正10年(1513年)、寛文5年(1665年)、文政3年(1820年)の修理の記録が残り、昭和41年(1966年)12月に建立より初めてとなる解体大修理を行う。

例大祭は10月第3土曜日。境内末社に、下記がある。

・恵美須神社……商売繁盛で信仰を集める当地随一の恵比須さま
・天香久山神社……かつてこの付近で良質の陶土が採掘されたことにちなむ社
・龍王神社……古来、雨乞いに霊験あり
・福神宮……奈良時代の豪族・小野福麿を祀る

【ご利益】
厄除け、防疫・防災、縁結び、五穀豊穣、財運
添御県坐神社(三碓) - ナガスネヒコともされる神、南北朝期の重文・社殿のある古社
【関連記事】
大和国六御県神社とは? - 奈良県の六つの御県、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布
『延喜式』祝詞とは? - 祈念祭・六月月次などに記載されている神々と神社
奈良県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、奈良県に鎮座している神社の一覧
添御県坐神社(三碓)の御朱印