【日刊】日本の城
・名称:湯築城(ゆづきじょう)
・別称:-
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:愛媛県松山市道後公園
・電話:089-941-1480
・日本100名城:第80番
- スタンプ:湯築城資料館
湯築城(ゆづきじょう)は、伊予国(今の愛媛県松山市)にあった、日本の城である。14世紀前半、伊予国守護河野氏によって築城された。東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城。河野氏が約250年間にわたって居城した。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180-1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得た。河野通信の孫が時宗の開祖である一遍上人。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移した。
その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありながらも、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立。
天正9年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予に侵入し、城主河野通直は元親と交戦した。
天正13年(1585年)、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻し、金子元宅を攻撃、湯築城は約1ヶ月の篭城の後に降伏した。
城にとどまっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。
天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、廃城となった。
慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。
明治21年(1888年)、県立道後公園として整備される。堀や土塁が現存する。
日本の歴史公園100選に「道後公園」として選ばれている。
【関連サイト】
・国指定史跡 道後公園湯築城跡
・名称:湯築城(ゆづきじょう)
・別称:-
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:愛媛県松山市道後公園
・電話:089-941-1480
・日本100名城:第80番
- スタンプ:湯築城資料館
湯築城(ゆづきじょう)は、伊予国(今の愛媛県松山市)にあった、日本の城である。14世紀前半、伊予国守護河野氏によって築城された。東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城。河野氏が約250年間にわたって居城した。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180-1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得た。河野通信の孫が時宗の開祖である一遍上人。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移した。
その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありながらも、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立。
天正9年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予に侵入し、城主河野通直は元親と交戦した。
天正13年(1585年)、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻し、金子元宅を攻撃、湯築城は約1ヶ月の篭城の後に降伏した。
城にとどまっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。
天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、廃城となった。
慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。
明治21年(1888年)、県立道後公園として整備される。堀や土塁が現存する。
日本の歴史公園100選に「道後公園」として選ばれている。
【関連サイト】
・国指定史跡 道後公園湯築城跡
コメント