「高千穂の夜神楽」で有名な高千穂八十八社の総社、日向三代などを祀る
[住所]宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1037
[電話]0982-72-2413

高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社。近代社格では村社、現在は神社本庁の別表神社

古来「十社大明神(じっしゃだいみょうじん)」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)、現社名に改称した。

主祭神は一之御殿(いちのごてん)の高千穂皇神(たかちほすめがみ)と二之御殿の十社大明神。

高千穂皇神は、日本神話の日向三代と称される皇祖神とその配偶神(天津彦火瓊瓊杵尊木花開耶姫命彦火火出見尊豊玉姫命彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊玉依姫命)の総称。参考:天皇家の系譜

十社大明神は、初代神武天皇の皇兄、三毛入野命(みけぬのみこと)とその妻子神9柱(三毛入野命の妃神である鵜目姫命(うのめひめのみこと)と、両神の御子神である御子太郎命、二郎命、三郎命、畝見命、照野命、大戸命、霊社命、浅良部命)の総称とされる。

十社大明神の中心である三毛入野命は、「記紀」に浪穂を踏んで常世国に渡ったとあるが、当地の伝承では、高千穂に戻り、当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八(きはち)を退治、当地に宮を構えたと伝える。

また文治5年(1189年)3月吉日の年記を持つ当社の縁起書『十社旭大明神記』には、神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後正市伊とその子孫などが十社大明神として祀られたという異伝を載せている。

更に、正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻二に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もある。

また、『平家物語』巻八緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている。

また、鵜目姫命は祖母岳明神の娘神で、鬼八に捕らわれていたところを三毛入野命に助け出され、後にその妃神になったという。

社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに始まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、第11代垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。

当社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば、朝廷からの神階授与があったことになるが、『延喜式神名帳』の記載はない。

また、天慶年間(938年-947年)に豊後国から大神惟基の長子政次(高知尾太郎政次)が当地に入り、高知尾(高千穂)氏を興した。

社伝によると同氏は当社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたという。

中世になると、土持氏の勢力が入り、建久8年(1197年)の『建久図田帳』では妻万宮(現西都市の都萬神社)の社領中に「高知尾社八町」、地頭土持宣綱とあって、当社は妻万宮の管轄下にあった。

同じ頃、高千穂氏によって紀州の熊野信仰がもたらされたようで、その後、高知尾庄と呼ばれるようになった当社の社領は、建長6年(1254年)4月26日の関東下知状案を見ると熊野山領とされており、地頭職には高知尾政重が就いた。

また社伝によれば、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納、この時重忠によって現存する重要文化財の鉄製鋳造狛犬一対が献納され、境内にある御神木「秩父杉」(町指定天然記念物)も重忠自らが植えたものという。

文永・弘安の役には敵国降伏祈願のために勅使が差遣された。鎌倉時代中頃からは高知尾庄に北条氏被官の安東氏の勢力が進出して来る一方で、熊野別当の後胤を称す浦上氏も預所職を務めるなど当社を含めた一帯の支配を強めるようになった。

また、鎌倉時代末から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称して三田井郷の地頭職を所持するなど、この頃から社領や神事を巡る相論が頻出、南北朝時代にはこれに加えて南朝方に与する阿蘇氏の勢力も進出、以後阿蘇氏支配の下、「高千穂郷総鎮守」として崇められた。

社伝によれば征西将軍懐良親王による祈願のための神宝が奉納されたという。

近世には寛永年間(1624年-1644年)に延岡藩主有馬氏から200石の寄進を受け、元禄10年(1697年)に同藩主三浦明敬による親拝、内藤氏も例祭に代参を差遣し神事料を寄進するなど、歴代延岡藩主から崇敬を受けた。

明治4年(1871年)7月に延岡県の県社、11月に美々津県の県社とされたが、宮崎県に改組されると明治6年(1873年)に村社とされた。戦後は神社本庁に参加し、昭和46年(1971年)に別表神社となった。

例祭は4月16日。当年の豊作等を祈る祭りで、この春祭りに対して、槵觸神社では秋に感謝祭を行う。また、お旅所である天真名井まで神輿の巡幸があり、そこで神楽が奉納される。

11月3日の天岩戸神社の「天岩戸夜神楽33番大公開まつり」に続くように、11月22日-23日に当社では「神話の高千穂夜神楽まつり」があり、夜を徹して重要無形民俗文化財に指定されている「高千穂の夜神楽」全33番が奉納される。

旧暦12月3日には猪掛祭が行われる。鬼神鬼八の慰霊のために始められたもので、かつては16歳になる生娘を生贄として捧げていた。

天正年間(1573年-1593年)に三田井氏の家臣甲斐宗摂がこれを悪習として、高城山で巻狩を行って獲た16頭の猪を代わりに捧げ、以後「鬼餌の狩」と称する狩りで獲た猪を捧げるようになったと伝える。

本殿は梁間2間の五間社流造銅板葺で棟に千木・鰹木を置く。安永7年(1778年)に延岡藩主内藤政脩を大檀那として造替された九州南部の代表的な大規模社殿であり、国の重要文化財に指定されている。

なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。槵觸神社、荒立神社との高千穂の高千穂の三社参りとしても知られる。

【ご利益】
縁結び、夫婦円満、諸願成就、農産業、厄祓(高千穂町観光協会
高千穂神社 - 「高千穂の夜神楽」で有名な高千穂八十八社の総社、日向三代などを祀る
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高千穂神社の御朱印