【日刊】日本の城
・名称:徳島城(とくしまじょう)
・別称:渭山城、渭津城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:徳島県徳島市徳島町城内
・電話:088-656-2525
・日本100名城:第76番
- スタンプ:徳島市立徳島城博物館受付カウンター
徳島城(とくしまじょう)は、阿波国(今の徳島県徳島市)にあった、江戸期には徳島藩の藩庁などにも機能した日本の城である。築城年は天正13年(1585年)、廃城年は明治2年(1869年)。天守の築造年は1588年、構造は不明(非現存)である。主な築城者は蜂須賀家政。
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。
頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。
『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波一国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成。
以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。
1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。1989年(平成元年)、鷲之門は復元された。
日本の歴史公園100選に「徳島中央公園」として選ばれている。
【関連サイト】
・徳島市:徳島城博物館
【関連記事】
・重要無形民俗文化財「阿波人形浄瑠璃」 - 蜂須賀家による保護で興隆した伝統芸能
・徳島市中五社 - 蜂須賀氏の阿波入部や徳島城築城以来の、徳島藩歴代藩主の格別な崇敬社
・春日神社(徳島市) - 徳島城や城下の鎮守、歴代徳島藩主から崇敬され続けた春日大明神
・金刀比羅神社(徳島市勢見町) - 市中五社、県下一の大鳥居のしめ縄、日本最大の石灯籠
・名称:徳島城(とくしまじょう)
・別称:渭山城、渭津城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:徳島県徳島市徳島町城内
・電話:088-656-2525
・日本100名城:第76番
- スタンプ:徳島市立徳島城博物館受付カウンター
徳島城(とくしまじょう)は、阿波国(今の徳島県徳島市)にあった、江戸期には徳島藩の藩庁などにも機能した日本の城である。築城年は天正13年(1585年)、廃城年は明治2年(1869年)。天守の築造年は1588年、構造は不明(非現存)である。主な築城者は蜂須賀家政。
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。
頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。
『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波一国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成。
以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。
1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。1989年(平成元年)、鷲之門は復元された。
日本の歴史公園100選に「徳島中央公園」として選ばれている。

【関連サイト】
・徳島市:徳島城博物館
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