【日刊】日本の城
名称:広島城(ひろしまじょう)
別称:鯉城、在間城、当麻城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:広島県広島市中区基町21−1
電話:082-221-7512
日本100名城:第73番
  - スタンプ:1階ミュージアムショップ

広島城(ひろしまじょう)は、安芸国(今の広島県広島市)にあった、江戸期には広島藩の藩庁などにも機能した日本の城である。大坂城岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なもの。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも。天守の築造年は1599年(複合連結式望楼型5重5階・非現存)、1958年にSRC造で外観復元。

それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた。

ただ毛利輝元時代の天正末期になり、天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備して領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる。

中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた。

1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあったという。

1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐)の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた。

1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式。穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、築城が開始された。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれ、縄張を秀吉の側近で築城の名手である黒田如水が思案した。

完成当初、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明。

福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロ四方の広大な城となったのはこの頃である。

二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したといわれ、町人町が拡大した。この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている。

さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された。

同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた。

1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。

1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された。

1926年(大正15年)10月史跡指定。それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが、1928年(昭和3年)に天守の一般開放が開始されている。1931年(昭和6年)1月には天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定される。

太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。

ここは爆心地からほぼ1キロ離れたところに位置した。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊。

戦後、1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守閣が作られる。1953年(昭和28年)3月31日、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった。

戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり、広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した。この時期に広島護国神社が本丸に移転再建された。

日本の歴史公園100選に「広島市中央公園」として選ばれている。

キャラクター(ゆるキャラ)は、もとにゃりくんである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。

別称の鯉城が、鯉、英語でカープとなり、現在のプロ野球球団である広島東洋カープの名称の由来の一つになっている。
広島城 安芸国(広島県広島市) - サムネイル写真
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