【日刊】日本の城
名称:鬼ノ城(きのじょう)
別称:-

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:岡山県総社市奥坂1762
電話:0866-92-1211
日本100名城:第69番
  - スタンプ:鬼城山ビジターセンター

鬼ノ城(きのじょう)は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に築かれている。すり鉢形の山容の8-9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が、鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。

城壁によって囲まれた城内の面積は約30ヘクタール。城壁は土塁が主体で、城門4ヵ所、角楼1ヵ所、水門6ヵ所などで構成される。城壁を保護するための敷石の発見は国内初。城内には、食料貯蔵庫と推定される礎石総柱建物跡5棟、管理棟と推定される礎石側柱建物跡2棟の他、溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されている。

「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、西門と角楼や土塁が復元されている。その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、鬼城山ビジターセンターと駐車場を整え、史跡公園として一般公開されている。

『日本書紀』によると、663年(天智天皇2年)の白村江の戦いに敗れた倭国は、唐・新羅の侵攻に備えて大野城を始めとして西日本の要所12箇所に古代山城を築いたと記されており、鬼ノ城もその一つであろうと推測されている。

しかし古代山城とする確証や具体的な築城時期、運用の記録などは現在に至るまで発見されていない謎の山城である。史書に記載が無く、12の古代山城に該当するか不明な城跡は「神籠石式山城」と呼ばれ、鬼ノ城もここに区分されている。

山中に石垣などの遺構が存在することは古くから知られていたが、1971年(昭和46年)に城壁の基礎となる列石が見つかり、古代山城と認識された。

1986年(昭和61年)3月25日に国の史跡に指定された。名称は「鬼城山(きのじょうざん)」。現在は総社市教育委員会が2001年(平成13年)より史跡整備を行っている。特に西門遺構は建造物・土塁・石垣の復元を進めている。

2006年(平成18年)からは、岡山県教育委員会による7か年計画の城内確認調査も開始された。なお、城内には湿地を中心として希少植物も多く分布するため、1999年(平成11年)には発掘調査と自然保護との調整が問題となったことがある。

一方で、地元を中心としてよく語られるのは、第十代崇神天皇の御世、四道将軍の一人として、吉備津彦命(きびつひこのみこと、『古事記』ではオオキビツヒコ)が吉備平定にあたって温羅(うら)という鬼を討ったが、その温羅の住処がこの鬼ノ城だった、というもの。

温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともにこれを討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。

この伝説が物語「桃太郎」のモチーフになった。であれば、この鬼ノ城はまさに鬼ヶ島ということになる。
鬼ノ城 備中国(岡山県総社市) - サムネイル写真
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