【日刊】日本の城
名称:津和野城(つわのじょう)
別称:一本松城、三本松城、石蕗城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:島根県鹿足郡津和野町後田
電話:0856-72-1771(津和野町観光協会)
日本100名城:第66番
  - スタンプ:リフト茶屋

津和野城(つわのじょう)は、石見国(今の島根県津和野町)にあった、日本の城である。築城年は永仁3年(1295年)で、廃城年は明治4年(1871年)。主な築城者は吉見頼行で、主な改修者は坂崎直盛である。

鎌倉時代、元寇の翌年の弘安5年(1282年)、吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任した。吉見氏は当初、木薗(木曽野。現在の津和野町木部)に屋敷(吉見氏居館跡)を設け、その北方に御嶽城や徳永城を築いていた。

永仁3年(1295年)、霊亀山南側の鷲原八幡宮の裏手から三本松城(もしくは一本松城)の築城を開始。山頂に向かって拡張を続け、頼行の子・吉見頼直の代である正中元年(1324年)に完成した。

頼行以降、津和野城は吉見氏14代の居城となった。吉見氏時代の津和野城の大手道は喜時雨(きじう。霊亀山西麓の地区)側に繋がっており、当時の吉見氏の居館は喜時雨にあったとするのが通説である。

吉見氏は戦国時代には当初大内氏に属していたが、11代当主正頼は大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して挙兵。天文23年(1554年)に100日以上に及ぶ籠城戦を展開した(三本松城の戦い)。

その後、厳島の戦いに勝利した毛利氏が防長経略を開始すると、吉見氏はその傘下に入って引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長2か国に押し込められると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。

代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。

元和3年(1617年)、因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。亀井氏により、山麓に居館(津和野藩邸)や外堀が設けられて、城下町が整備された。

貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。

明治4年(1871年)、全国の各藩に先駆けて廃藩(廃藩置県)となり廃城となった。城は、津和野の商人である三上喜左衛門に払い下げられ、翌7年(1874年)に山上の城は解体された。

「津和野城跡」「津和野城外堀」としてそれぞれ日本遺産津和野今昔~百景図を歩く~」の構成文化財の一つ。美しい日本の歴史的風土100選に「城下町津和野の街並み」として選ばれている。
津和野城 石見国(島根県津和野町) - サムネイル写真
【関連サイト】
津和野城跡 - 詳細情報 - しまね観光ナビ

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