【日刊】日本の城
・名称:月山富田城(がっさんとだじょう)
・別称:月山城、富田月山城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:島根県安来市広瀬町富田
・電話:0854-32-2476
・日本100名城:第65番
- スタンプ:安来市立歴史資料館
月山富田城(がっさんとだじょう)は、出雲国(今の島根県安来市)にあった、日本の城である。日本五大山城、日本五大山岳城の一つ。主な築城者は佐々木義清、主な改修者は尼子経久、堀尾吉晴である。
保元・平治(1156年-1159年)の頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承がある。
1221年(承久3年)の承久の乱の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり下向、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る。
1341年(興国2年/暦応4年)、出雲源氏の惣領塩冶高貞が幕府の追討を受ける。1343年(興国4年/康永2年)、佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚を守護代とする。吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となる。
1364年(正平19年/貞治3年)、山名時氏が出雲国守護となる。1391年(元中8年/明徳2年)、山名満幸、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となる。1392年(明徳3年)、京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とする。
1484年(文明16年)、守護代尼子経久、所領横領により追放され、塩谷掃部介が守護代となる。1486年(文明18年)、尼子経久、不意をついて当城を奪回。その後、経久は月山富田城を拠点に勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となる。城域を拡大・整備する。
1541年(天文10年)経久没後、1543年(天文12年)に大内・毛利連合軍に攻められるが、新宮党尼子国久らの奮戦により撃退。1552年(天文21年)、尼子晴久、足利義輝及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護、従五位下修理大夫に任命される。
1554年(天文23年)に晴久、新宮党を粛清するも、1560年(永禄3年)に急死、尼子義久が家督を継ぐ。
1565年(永禄8年)、毛利氏の包囲を受け、籠城。1566年(永禄9年)、兵糧が尽き、開城。義久は捕らえられ、安芸国へ送致される。城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城する。
1567年(永禄10年)、城代として天野隆重が居城。1569年(永禄12年)、尼子氏旧臣山中幸盛ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。1570年(元亀元年)、毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。
1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となる。
【関連サイト】
・月山富田城跡 : ようこそ安来へ -安来市観光協会公式サイト
・名称:月山富田城(がっさんとだじょう)
・別称:月山城、富田月山城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:島根県安来市広瀬町富田
・電話:0854-32-2476
・日本100名城:第65番
- スタンプ:安来市立歴史資料館
月山富田城(がっさんとだじょう)は、出雲国(今の島根県安来市)にあった、日本の城である。日本五大山城、日本五大山岳城の一つ。主な築城者は佐々木義清、主な改修者は尼子経久、堀尾吉晴である。
保元・平治(1156年-1159年)の頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承がある。
1221年(承久3年)の承久の乱の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり下向、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る。
1341年(興国2年/暦応4年)、出雲源氏の惣領塩冶高貞が幕府の追討を受ける。1343年(興国4年/康永2年)、佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚を守護代とする。吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となる。
1364年(正平19年/貞治3年)、山名時氏が出雲国守護となる。1391年(元中8年/明徳2年)、山名満幸、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となる。1392年(明徳3年)、京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とする。
1484年(文明16年)、守護代尼子経久、所領横領により追放され、塩谷掃部介が守護代となる。1486年(文明18年)、尼子経久、不意をついて当城を奪回。その後、経久は月山富田城を拠点に勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となる。城域を拡大・整備する。
1541年(天文10年)経久没後、1543年(天文12年)に大内・毛利連合軍に攻められるが、新宮党尼子国久らの奮戦により撃退。1552年(天文21年)、尼子晴久、足利義輝及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護、従五位下修理大夫に任命される。
1554年(天文23年)に晴久、新宮党を粛清するも、1560年(永禄3年)に急死、尼子義久が家督を継ぐ。
1565年(永禄8年)、毛利氏の包囲を受け、籠城。1566年(永禄9年)、兵糧が尽き、開城。義久は捕らえられ、安芸国へ送致される。城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城する。
1567年(永禄10年)、城代として天野隆重が居城。1569年(永禄12年)、尼子氏旧臣山中幸盛ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。1570年(元亀元年)、毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。
1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となる。

【関連サイト】
・月山富田城跡 : ようこそ安来へ -安来市観光協会公式サイト
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