【日刊】日本の城
名称:鳥取城(とっとりじょう)
別称:久松城、久松山城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:鳥取県鳥取市東町
電話:0857-22-3318(鳥取市観光案内所)
日本100名城:第63番
  - スタンプ:鳥取城跡内「仁風閣」内

鳥取城(とっとりじょう)は、因幡国(今の鳥取県鳥取市)にあった、江戸期には鳥取藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は天文年間(1532年-1555年)で、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は、独立式望楼型3重(1573年頃)、複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改築、非現存)である。主な築城者は但馬山名氏で、主な改修者は吉川経家、池田長吉である。

戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が指摘されている。

正式に城主が確認されるのは、元亀年間(1570年-1573年)の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間(1558年-1570年)には鳥取城を拠点とした。

湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。高信はその後も山名豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。

1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すと、まもなく豊国の手によって謀殺された。

因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となった。

しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏する。1575年(天正3年)、芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着く。

1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担している)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。

ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。

春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月、毛利氏の重臣である吉川経家を城主に迎えた。

同年4月、因幡守護・豊国は織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。

秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。

さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。

『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。いわゆる「鳥取の渇え殺し」。城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。

分かっているだけで、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があったことになる。

経家や山名旧臣に代わり、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。

その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。

所領は継潤の子の宮部長房が受け継いだ。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守ったが、関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城する。

関ヶ原の戦いの功により、近江甲賀郡水口から池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡 伯耆32万5000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。

その後ふたたび、備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。

キャラクター(ゆるキャラ)には、かつて「かつ江(渇え)さん」が公開されたこともあった。2014年7月7日にネット上に公開されたが、わずか3日間で削除。「鳥取の渇え殺し」をモチーフにした、やや不気味なデザインが一部で不評だったようだ。
鳥取城 因幡国(鳥取県鳥取市) - サムネイル写真
【関連サイト】
鳥取市公式ウェブサイト:鳥取城だよりの刊行について