清和源氏武士団発祥の地、「源家祖廟」として一貫した崇敬受ける
[住所]兵庫県川西市多田院多田所町1-1
[電話]072-793-0001
多田神社(ただじんじゃ)は、兵庫県川西市多田院にある神社。近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。「多田院」として国の史跡に指定されている。
同地は清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天禄元年(970年)に天台宗寺院として建立された。
住吉大社の神託に従って射た矢が落ちた地が当地の多田だといい、そのため、満仲は多田源氏を名乗ったという。
この時、矢を見つけた家臣に与えた三ツ矢の姓と三本の矢羽根の家紋は、飲料の商標「三ツ矢サイダー」の由来になっている。
当社所蔵の古文書のうち、貞応2年(1223年)9月24日付の北条泰時の書状によれば、泰時が多田院に対し代官使の入部を停止させていることがわかる。
鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であったが、神仏分離の際に神社となった。その際、南大門にあった金剛力士像が満願寺に移されるなどした。
当社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。京都府京都市南区の六孫王神社、大阪府羽曳野市の壺井八幡宮とともに源氏三神社の一つとされる。
源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、当社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を当社に分骨している。
特に足利尊氏は建武3年(1336年)3月2日の九州多々良浜の合戦以前に多田の由緒を伝え聞いて多田院を崇敬したという。
「多田院鳴動」と呼ばれる事象が伝わり、時変の急を天下に予告したという。すでに頼朝のころに端を発しており、室町時代において、応永22年・同34年・寛正5年・文明4年・同14年・長享元年・延徳3年・永正4年の各年代にあったとされる。
現在の社殿は、寛文年間(1661年-1672年)に徳川家綱が再建したもので、それ以前は天正5年(1577年)の津田信澄の手による焼失(有岡城の戦い)のため荒廃していたという。
毎年4月には、源満仲や源頼光、源頼信、源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前や静御前らの女性は公募で選ばれた女性たちが扮し、まつりの目玉となる。
源氏の霊廟の性格から、源氏の個々の武士ではなく、清和源氏の武士がほぼ全員登場するところが特徴。
『平家物語』では鹿ケ谷の密告者として評判のよくない多田行綱も、当社の源氏まつりでは、源頼朝や源義経、源義仲などと同じく源氏の主要な武将の一人として馬上の武者行列に登場する。
寛文7年(1667年)の建立である本殿や同時期のものと思われる拝殿、随神門が国の重要文化財に指定されている。
参拝すれば、御朱印を頂ける。「源家祖廟」が大書されているものがある。また、甲冑姿のハローキティの御守「ハローキティ勝運守」がある。正月三が日の初詣客で賑わうことでも知られ、期間中20万人前後が参拝する。
清和源氏発祥の地として、清和源氏同族会の運営を行っている。
なお、満仲に関連するものとして、神奈川県中部の境川中流域には12社の鯖神社が存在する。
【ご利益】
勝運、交通安全、合格祈願、家内安全、病気平癒、厄除など(公式HP)
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多田神社(ただじんじゃ)は、兵庫県川西市多田院にある神社。近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。「多田院」として国の史跡に指定されている。
同地は清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天禄元年(970年)に天台宗寺院として建立された。
住吉大社の神託に従って射た矢が落ちた地が当地の多田だといい、そのため、満仲は多田源氏を名乗ったという。
この時、矢を見つけた家臣に与えた三ツ矢の姓と三本の矢羽根の家紋は、飲料の商標「三ツ矢サイダー」の由来になっている。
当社所蔵の古文書のうち、貞応2年(1223年)9月24日付の北条泰時の書状によれば、泰時が多田院に対し代官使の入部を停止させていることがわかる。
鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であったが、神仏分離の際に神社となった。その際、南大門にあった金剛力士像が満願寺に移されるなどした。
当社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。京都府京都市南区の六孫王神社、大阪府羽曳野市の壺井八幡宮とともに源氏三神社の一つとされる。
源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、当社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を当社に分骨している。
特に足利尊氏は建武3年(1336年)3月2日の九州多々良浜の合戦以前に多田の由緒を伝え聞いて多田院を崇敬したという。
「多田院鳴動」と呼ばれる事象が伝わり、時変の急を天下に予告したという。すでに頼朝のころに端を発しており、室町時代において、応永22年・同34年・寛正5年・文明4年・同14年・長享元年・延徳3年・永正4年の各年代にあったとされる。
現在の社殿は、寛文年間(1661年-1672年)に徳川家綱が再建したもので、それ以前は天正5年(1577年)の津田信澄の手による焼失(有岡城の戦い)のため荒廃していたという。
毎年4月には、源満仲や源頼光、源頼信、源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前や静御前らの女性は公募で選ばれた女性たちが扮し、まつりの目玉となる。
源氏の霊廟の性格から、源氏の個々の武士ではなく、清和源氏の武士がほぼ全員登場するところが特徴。
『平家物語』では鹿ケ谷の密告者として評判のよくない多田行綱も、当社の源氏まつりでは、源頼朝や源義経、源義仲などと同じく源氏の主要な武将の一人として馬上の武者行列に登場する。
寛文7年(1667年)の建立である本殿や同時期のものと思われる拝殿、随神門が国の重要文化財に指定されている。
参拝すれば、御朱印を頂ける。「源家祖廟」が大書されているものがある。また、甲冑姿のハローキティの御守「ハローキティ勝運守」がある。正月三が日の初詣客で賑わうことでも知られ、期間中20万人前後が参拝する。
清和源氏発祥の地として、清和源氏同族会の運営を行っている。
なお、満仲に関連するものとして、神奈川県中部の境川中流域には12社の鯖神社が存在する。
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