【日刊】日本の城
・名称:和歌山城(わかやまじょう)
・別称:虎伏城、竹垣城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:岡口門・続塀
・住所:和歌山県和歌山市一番丁3
・日本100名城:第62番
- スタンプ:和歌山城天守閣楠門受付
和歌山城(わかやまじょう)は、紀伊国(今の和歌山県和歌山市)にあった、江戸期には紀州藩の藩庁などにも機能した日本の城である。姫路城、松山城とともに日本三大連立式平山城の一つ。
築城年は1585年(天正13年)で、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は、連立式層塔型3重3階(1605年または1619年築・1850年再)、外観復元(1958年再)。主な築城者は豊臣秀長で、主な改修者は浅野幸長、徳川頼宣である。
豊臣秀吉の弟・秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った。
普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に和歌山と改められている。
1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。1596年(慶長元年)、重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城。
幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。
1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。
頼宣は兄の二代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。
1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。
1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。
1871年(明治4年)、廃城。天守は1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により焼失。天守群は戦後、1958年(昭和33年)に東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。
本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。初代徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。
美しい日本の歴史的風土100選に「和歌浦、紀三井寺、和歌山城、友ヶ島」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)は、吉宗くんである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。
【関連サイト】
・和歌山市観光協会 公式HP|和歌山の歴史 和歌山城
【関連記事】
・刺田比古神社 - 大伴氏が始祖の道臣命を奉斎した「岡の里」、徳川吉宗ゆかり「拾い親」
・名称:和歌山城(わかやまじょう)
・別称:虎伏城、竹垣城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:岡口門・続塀
・住所:和歌山県和歌山市一番丁3
・日本100名城:第62番
- スタンプ:和歌山城天守閣楠門受付
和歌山城(わかやまじょう)は、紀伊国(今の和歌山県和歌山市)にあった、江戸期には紀州藩の藩庁などにも機能した日本の城である。姫路城、松山城とともに日本三大連立式平山城の一つ。
築城年は1585年(天正13年)で、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は、連立式層塔型3重3階(1605年または1619年築・1850年再)、外観復元(1958年再)。主な築城者は豊臣秀長で、主な改修者は浅野幸長、徳川頼宣である。
豊臣秀吉の弟・秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った。
普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に和歌山と改められている。
1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。1596年(慶長元年)、重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城。
幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。
1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。
頼宣は兄の二代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。
1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。
1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。
1871年(明治4年)、廃城。天守は1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により焼失。天守群は戦後、1958年(昭和33年)に東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。
本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。初代徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。
美しい日本の歴史的風土100選に「和歌浦、紀三井寺、和歌山城、友ヶ島」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)は、吉宗くんである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。

【関連サイト】
・和歌山市観光協会 公式HP|和歌山の歴史 和歌山城
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