【日刊】日本の城
名称:高取城(たかとりじょう)
別称:芙蓉城、鷹取城、高取山城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:奈良県高市郡高取町高取
日本100名城:第61番
  - スタンプ:高取町観光案内所「夢創舘」

高取城(たかとりじょう)は、大和国(今の奈良県高取町)にあった、江戸期には高取藩の藩庁などにも機能した日本の城である。日本三大山城の一つ。築城年は元弘2年(1332年)、廃城年は明治6年(1873年)。天守は、連立式3重3階地下1階(非現存)。主な築城者は越智邦澄で、主な改修者は筒井順慶、本多利久である。

南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。

越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となった。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めた。

証如軍は高取城を包囲し、激戦となったが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡。

筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。

天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造。本丸には、多聞櫓で連結された三重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。

利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。

秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際、俊政は討伐軍に加わり不在だった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害に拠って西軍を敗退させた。

俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。

俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが、寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5000石の大名に取り立てられ新たな城主となった。

以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける。

植村時代は、それぞれ三重の天守と小天守をはじめ、22基の櫓、5基の多門櫓、33棟の門、2900メートルの土塀、3600メートルの石垣、9の橋梁(きょうりょう)、5の堀切からなっていた。

高取城址猿石は、飛鳥時代の石造物で、斉明女帝が、古代のおもてなしの場の盛り上げ役として造ったオブジェ。日本遺産日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」の構成文化財の一つ。

キャラクター(ゆるキャラ)は、シロッキーである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。
高取城 大和国(奈良県高取町) - サムネイル写真
【関連サイト】
高取城 高取町観光ガイド

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